十五
ベルナデットは俺から手を離し、十字を切った。そしてまた俺の左腕に右手を乗せた。
「あなたも石を投げられない側の人間ね」
夢見る子ども時代はとうの昔に終わった。小鳥に話し掛けられるような修道僧の清らかさを保って生きていない。
「独身だから女を知らないなんて嘘は言わない。それに俺は軍人で、戦場で戦った。己の罪深さを知っている」
ベルナデットが俺を見上げ、手を体にぐっと寄せた。
「決めつけないで。あなただって神様にお祈りし、赦しを請うでしょう? 神様はあなたを見ています」
肌を通す以外の温もりが、胸に流れ込んでくる。やさしく善良なベルナデット。俺がこうして腕を組む資格があるのか、水面を揺らす小波が荒れる。しかし、この手を離したくない。
「有難う」
今はそれしか言えない。
ベルナデットの微笑みに、俺も微笑み返した。彼の女の手は美しい装飾の品々を創りだす手だ。清らかで、女性たちを、人々をより一層見事に引き立てていく、芸術の女神に愛された手だ。
俺の手は汚れている。敢えて選んだ、命を担保の賭け仕事、そして今は人類最古の職業に就いている。
葛藤を解す光明を神に求めるほど、歳を取っていない。だが、ベルナデットが言うのなら、もっと祈りを捧げてみてよいかと感じる。
俺らしくもなく、気弱になったか。
「わたしだってね」
と、ベルナデットが語った。
「ふしだらしようなんて少しも願ってはいなかったのよ。でも、世間様からは道を踏み外したように見られてしまう結果になってしまって、悔しい想いをした。
わたしが店で母やアンヌと一緒に仕事をしていて、言い寄ってきた男の人がいたの。あちらは真剣で、熱心だと信じたし、こちらもだんだんと本気になってきた。
思い出すと腹が立ってくるから、経過は省くわ。その男性と結婚すると決まって、男性側は親類がいないというから、わたしたち側だけで準備をした。そして結婚。でも、駄目になった。その男性とはそれっきり」
俺は当たり前の疑問を口にした。
「確か、フランスでは革命の後、教会の力が弱くなって離婚できるようになった、でもブルボン家の王様が戻ってきたら、カトリック教会も盛り返して、離婚できなくなったと聞いた。ナポレオンの皇帝になって、また離婚できるようになったのか?」
ベルナデットは首を振った。
「今でも離婚はできないわ。わたしの場合は結婚の無効。結婚しましたと、宣言したら、異議あり、と、いないはずの男性の親族と男性の妻が現れた。
子どもができないことを理由に結婚を無効にしたがっていたけれど、夫婦の仲が成立していたら、そんな証明できないような事柄で無効にはできないと、教会では拒否の回答を男性にしていた。それならば、と、ほかの若い女と結婚したことにして、そちらで子どもができたら、妻との結婚を無効にできるだろうと浅知恵を思い付いて、わたしに言い寄ってきた。そんな真似してみたって、妻の側だって言い分があるのだから、初めの結婚を無効にできる訳がないじゃない。異議が認められて、わたしとの結婚が無効になった。
結婚しようとしてくれたんだから、わたしを好きでいてくれたんでしょうけど、嘘を吐いていて、おまけにその異議申し立てが遅れていたら、とんでもないことになっていた。早々と奥さんが来て大暴れしてくれたお陰で、わたしもあの男をひどい奴と罵れた。結婚生活を始めていたら、わたしは情婦扱いになっていたところ。
まあ、どっちにしても重婚しそうになって、家に戻ってきたってことで、充分、男運が悪い娘の一人」
なんでもないように言うが、どれほど辛く、惨めだったろう。祝福してくれた人々が手の平を返すように嗤っていたかも知れないのだ。そして、その男性の妻や親族からどのような扱いを受けたのか、いや、考えるまい。
ベルナデットは付け加えた。
「嘘吐きは嫌い」
嘘を吐くのが仕事の一つだ。だが、彼の女に対しては、できるだけ誠実でいよう。ベルナデットを傷付けたくない。あの時流した涙の意味を知ったからには。
参考論文
『フランス離婚法における破綻主義の展開(一)』 大杉麻美
『注釈・フランス家族法』 田中通裕