二
久方振りにリンデンバウム伯爵邸を訪れた。伯母は伯爵家の当主としての威儀を整え、俺を出迎えた。甥とはいえ、騎士階級に過ぎない俺は格下だ。作法どおりにお辞儀をした。
「ご機嫌よろしう、リンデンバウム伯爵」
「ご機嫌よう、アレティンどの」
伯母は腕を差し伸べた。
「さ、もう少しこちらへ来て顔をよく見せて」
戸惑いながら、俺は伯母へ歩み寄った。伯母は俺を抱き締めた。
「堅苦しいのは終わりにしましょう、オスカー」
「はい、伯母様」
いつの間にか背丈を追い越した。体調が悪い時はむくんでいる伯母の顔がすっきりとして見えるのは体調がいいからだろう。険しさのないおだやかな眼差しを向け、小さな手が俺の手を取る。
「久方振りなのだから、色々と話を聞かせて頂戴な」
お茶を運ばせ、会見は続いた。
入学の準備は出来たのか、急に学校に入る生活に不安はないのか、年長者の質問から始まった。
漠とした不安はあるけれど、それよりもこれからの生き方をしっかりと見定めていきたい、十六歳にしては良く出来た答えを言えたと思う。
「真面目に勉学に励むことが出来るのは子供のうちなのだから、後からもう少し努力しておけば良かったと悔やむことのないようになさい」
厳しいことしか言わない女性だ。
「歳月は自分自身に大した経過を感じさせないけれど、こうして貴方を見ていると十六年の時間の長さを改めて感じさせるわ」
独身で過してきた伯母はいつまでもお姫様だが、もう四十路は超えている。
「あっという間に士官学校を卒業して、出世して、閣下と呼ばれるようになりますよ」
「そううまくいくでしょうか」
「貴方なら大丈夫でしょう。軍隊は死亡率の高い職場ですけどね」
伯母はいつも冷静だ。
「貴方だって志半ばで戦死するような未来は考えていないでしょう。貴方が国の為なら命を投げ出して惜しくないという感傷的な性格をしているとは思えませんからね。いくら現実よりも理想を優先させるようなお年頃でもね」
「理想なんてありません」
「なら野心かしら」
心が揺れた。自らの心の内にある漠然としたもの、明言化できないもの、それを伯母は空色の瞳で見透かしたのか。
「若い人が悲嘆に暮れて自ら未来を閉ざすより、野心や希望を持って行動するのが相応しい」
一般論であって、俺の思い過ごしか。
「私が悲嘆に暮れているように見えましたか」
「貴方のお父様が亡くなってからしばらくはね」
父親には違いない人だったから。伯母とて不仲だったとはいえ父君(つまり俺の祖父だが)を去年亡くして落ち込んでいた。
「家族を失うのは辛いことですもの。でもあなたはまだまだ先がある。色々な人たちと出会って、お友達が出来て、それから結婚もするでしょうから、寂しいなんて思う必要はないのよ」
お友達? 同じ身分の中で友人が出来るだろうか。士官学校では身分の枠を外す建前があるので、平民出身の同級生と親しくなる場合もあるだろう。アンドレーアスとのようにならなければいい。
「共に戦う仲間の中に刎頸の友が見付けられれば幸いと思います。でも結婚はしません」
「そう言っていた人ほど早く結婚していましたよ」
伯母は俺の言葉を子供っぽさからきていると思ったのだろう。子供子供と思われているのは癪だった。
「結婚したって幸福な人生が送れる訳ではないのですから」
伯母は目を見開いた。
「幸福を量るのは当人にしか出来ませんよ」
誰の目から見ても父が仕合せだったとは言えないはずだ。母だって自殺に近い死に方をした。
俺が生まれたから。いいや、父と母が結婚したからだ。
だが伯母には何も言えなかった。夫を侮っていた母を、その姉に対してなじることは、いくら俺でも出来なかった。
「世の中、自分の信念や希望に従って生きていけるほど仕合せなことはありません。だからあなたが結婚しないと言うならそれでいい。望んだ時に心を結ぶ相手がいれば、それに勝るものはありません」
口調は少しも優しくなかった。俺の考えなどやはり伯母にはお見とおしなのだろうし、伯母にだって俺の両親に対して言いたいことは山ほどあったのだろう。
俺はやっとの思いで声を絞り出した。
「そのようにお言葉を掛けてくださるのは伯母様だけです。有難く思っております」
「貴方は、今存在しない人にとらわれる必要はない。貴方は貴方の生き方を貫きなさい」
今宵は泊まっていくようにと言われていたので、また伯母と顔を突き合わせて夕食となったが、話題は昼で尽きている。日常的な会話に退屈を感じた。これも仕事だ。
食事が終わると、メイドではなく、伯母の侍女のエリザベートがお茶を運んできた。てきぱきと茶器を並べていくと、自分の分のお茶まで用意して、俺の向かい側に座った。
独身の伯母は時々エリザベートに食事やお茶の時に話し相手を務めさせるのだろうが、俺が来ているのにどうしてだろう、おかしなことだ。
伯母は形だけお茶に口を付けると、すぐに茶碗を置いた。
「オスカー、わたしはこれで失礼します。あとはエリザベートが貴方の話し相手をします」
ご機嫌ようと、伯母は立ち上がった。何が何だか判らぬままに、俺も立って伯母に挨拶をする。おやすみなさいませ、とエリザベートも立って女主人を見送った。
伯母が出ていくと、俺とエリザベートは立ったまま顔を見合わせた。伯母より十ばかり年下の、といっても三十がらみの、色の白い、全体的に小造りな印象の女だ。
「立ったままではお茶が飲めませんわ、アレティン様」
俺は座り、それから立ったままのエリザベートに慌てて掛けていいよ、と言った。
「伯母様はお加減が悪いの? だとしたら泊まらなかったのに」
エリザベートの前では伯母を伯爵と呼ぶ必要がないので、自然くだけた口調となる。
「こういう時にどんなお顔をして、どんなお言葉を掛けたらよいか判らなくていらっしゃるだけでございますよ」
「こういう時って?」
エリザベートは表情の選択に困ったようだ。苦笑いをして、次いで真剣になった。
「ディナスは何も申し上げておりませんでした?」
「いいや」
答えてから考えた。いつものごとく、伯母に失礼のないようにとか、もう大人も同然なのだから一人前の貴族として振る舞うようにとか言われたが、それが何か特別な意味を持っているとは思えなかった。年長者が年少者にしっかりしなさいと言うのは珍しくない。しつこく言われたかも知れないが、訪問先がリンデンバウム伯爵家だから尚更ディナスは気にしているのだと、半ば聞き流していた。
エリザベートは続けた。
「アレティン様は十六歳でいらっしゃいます」
「ああ」
「現在お好きな方や、お約束なさっている方がいらっしゃいますか」
「いいや」
いる訳がない。
「アレティン様は今秋士官学校に入学、入寮なさり、生まれ育ったお屋敷を離れられます。成人と定まった年齢には達していらっしゃいませんが、既にアレティン家のご当主でいらっしゃるのですもの、世間ではアレティン様を大人として扱われるでしょう」
「ああ、そうだろう」
エリザベートが言わんとする事柄が察せられてきた。こちらもどんな態度をとったらよいか困った。女や性に興味がないのではない。単純に嬉しいとか、嫌らしいとかいった感情が持てない。何故今で、何故エリザベートが相手なのか。
かといって落胆しているのとも違う。俺はエリザベートを嫌っていない。伯母を助ける良い侍女だと思っている。ただ、女性として好ましいとかの対象として見てみたことがない。
「誰がこんなことを考えたの? 伯母様?」
「いいえ、主人自らが考え付いたことではございません」
「じゃあ誰が?」
言葉にして吐き出していると、腹立ちさえ感じてくる。エリザベートはなだめるように言った。
「お怒りにならないでください」
「怒ってはいないさ。俺、いや私の知らないところでこそこそと決めていくのが気に喰わないんだ」
俺の気性を心得ていて、エリザベートはすべて説明すると言った。
「ディナスがずっと気にしていたんですよ。こういうこと、ああ、上品に言うにはどんな言葉を使ったら良いものなのでしょう。房事とやら申すのでしょうか。
房事を教える時期やら相手やらは年長のご親族の男性が設定して差し上げるのが通常と聞き及んでおります」
通常なんてレベルは俺は知らない。
「士官学校の寮に入られて、また卒業後遠い任地に赴かれて、悪い女に引っ掛かったりしないかと、ディナスは老婆心ながら心配しております。
房事の経験があれば女性に対して過剰な幻想を抱いて抜き差しならぬ事態になりはしまいと、ディナスは考えました。女性の扱いを単なるマナーの上でなく知る必要があるとも」
「それで?」
「それで士官学校に入る前にと」
確かに俺に年長の親族はいないし、兄、先輩と慕う友人もいない。唯一といっていい身近な男性の年長者が悩んだ末なのだろう。父に代わってあれこれと人生訓を垂れてくれるのには感謝するが、こればかりは有難くもなんともない。
「ディナスはプロの女性を招こうとは一切考えませんでした」
ディナスは愛情を金に換える職業を賤業と信じている。
「アレティン家の使用人では今後お仕えするのに差し障りが出てくるのではと、ディナスは主人に、リンデンバウム家にお相手が務められる者がいないかと相談してきました」
溜息を吐きたくなった。
「ディナスはどんな顔をして伯母様に言ったんだろう」
「さあ、わたしは席を外しておりましたから存じません」
エリザベートはニコリともしなかった。
「お年齢が近い同士では元々のお役目を忘れて夢中になってしまったらいけませんから、年齢の離れたわたしではと決まりました」
おれはまじまじとエリザベートの顔を見た。
「リザは気にしないの?」
「何をでございますか」
「愛情の対象でも、結婚する相手でもない男と、その……、寝ることをだ」
切羽詰まったような俺に対して、エリザベートには余裕があった。
「三十の未亡人が初めてのお相手ではご不満なのですね」
エリザベートの裸身を一瞬想像してしまって、妄想を消そうと俺は頭を振った。
俺が主張したいことと別の意味に取られてしまう。顔の火照りがエリザベートに悟られている。一層心拍数が上がりそうだ。何とか胸に詰まった言葉を吐き出した。
「違う!
処女じゃないし、結婚や愛人にしてくれと言い出す心配がないから丁度いいなんて扱いを受けてリザは気にしないのか」
エリザベートの予想しなかった言葉だったらしく、彼の女は目を見開き、そしてなんだかかなしそうになった。
「アレティン様が気になさる必要はないのですよ。貴族の、それも十代の素敵な貴公子と同衾できるのですもの、わたしも貴重な体験ができるのですもの」
俺は信じなかった。
何故だろう。親身になって俺の世話をしてくれ、話し相手や相談相手になってくれるのにもかかわらず、俺がかれらの立場を忖度しようとすると、ピタリと心を閉ざす。
所詮家族でも友人でもないのだ。
主人に忠誠を尽くすのは仕事として当然でも、主人から気遣われるのはプライヴァシーの侵害とでもいうのだろうか。
「遊び慣れているように聞こえる」
十六歳の子供に言われて動ずるふうはなかった。
「アレティン様、たとえ使用人が相手でも女に向かってそんな仰言っりようをするもんじゃございませんよ」
自分でも言い過ぎた。
「私が悪かった。だけどリザ、自分を好きでもない男からもてあそびものにされたら嫌だろう?」
「嫌ですわ」
「嫌だったら何故さ。伯母様がおまえに強要したのか?」
「確かに主人から頼まれました。けれど……」
「断る訳にいかなかったのか。だったら俺が伯母様やディナスに言うから。おまえは自室の帰っていい」
「いえ、そうではなくて……」
「どうした?」
「アレティン様はご自身が女からどんなふうに見られているかご存知ないようですね」
え、と俺は言葉に詰まった。リザは可笑しそうだった。
「ほら、ご存知ない」
「知らないからといって困るわけじゃないだろう」
「さあ、どうでございましょう。貴族の方々は平民たちがとんな目で見ているか気になさらないし、殿方は女がどんなふうに殿方を見詰めているのか関心がないようですね」
常に人にかしずかれる立場の者として周囲の人間に対して規範となるよう振る舞い、かしずく者に対しての感謝の気持ちを忘れるなと教えられ、それを守ってきている。どんな目で見られているか意識せずに過してきた訳ではない。だが女からの視線を意識したことがあったか。
女がどんなふうにものを見るか、考えてみたこともない。
見られる。
ジリジリと強い日差しに晒されるように嫌だ。
「リザは私をどう見ている。私は主人の甥だろう。主人の甥だからへりくだっているが、身分としては自分と変わりがないと思っている? そしてただの子供だと?」
いいえ、とエリザベートは微笑んだ。
「今までお会いしたどんな殿方よりもご立派な、きらきらしい殿方に成長なさいました」
エリザベートは、伯母が甥を見るようには俺を見ていない。男として自分を見ていることに驚いた。自分はもう子供ではないと自覚しているのに、その点はまるで無防備に視線を受けていたのか。
改めて俺はエリザベートを見詰めた。視線が絡み合った。
お茶のお代わりを尋ねるようにエリザベートは言った。
「それで、わたしがお相手するかどうかについて、まだお返事をいただいておりませんわ」
お茶に砂糖を入れないで、と注文を付けるかのように俺は答えた。
「お願いしよう」
艶やかに微笑む、そして年下の男に対する興味を隠さない女が目の前にいた。