九
アレティンさまは律儀だわと、アグラーヤは嫣然として右手を差し出した。甲を上にせず、親指を上にしているので、俺は苦笑して同じように右手を出し、手を握りしめた。アグラーヤは次にアンドレーアスと握手をした。
ロビーの中で空いている席にアグラーヤを座らせ、俺たちも掛けた。
「お子さんたちはお部屋にいるのですか?」
と、アンドレーアスが尋ねた。
ええ、とアグラーヤは肯いた。丁度ローンフェルト夫妻が用足しから戻ってきて一息入れていた頃合いに知らせが来たので、行ってらっしゃいと快く送り出してくれたそうだ。
「それなら少し時間をいただいても平気なのですね?」
「ええ、ずっと子どもたちに付きっきりでしたし、明日は日曜日でやっとご家族一緒でお出掛けですから、今ならいくらか大目に見てくださると思います。でも外には出られません。ここでお話するだけです」
やはり子どもに好かれている先生は連絡の取れない場所に行けないか。
「フロイラインと万国博覧会や巴里の名所をご一緒に回れたらと考えていたのに、残念です」
アンドレーアスは率直だ。
「ディナスさまのお気持ちは嬉しいです。ローンフェルトご一家と一緒で構わないのでしたら、明日の博覧会へのお出掛けにお誘いしてもと思いましたけれど、折角の日曜日にお仕事相手や、子どもたちがいたら、詰まらないでしょう?」
率直ならざるアグラーヤからの断りだが、アンドレーアスは真剣に考えはじめたらしい。
「はあ……、それならご一緒できますか」
俺は驚いた。おいおい、アグラーヤも今更取り消せないと困っているじゃないか。
「美しい貴女と異国情緒を楽しみたいのか、商売熱心なのか、俺も判断に苦しみます」
とりあえず補足とも蛇足ともつかない言葉で誤魔化した。イングランドばかりでなく、フランスにも本格的に調香に力を入れて独自の香水を創り上げている店が出てきたので、アンドレーアスはドイツでも通じる物なのか、知識と助言が欲しいらしいと、アグラーヤに教えた。
アグラーヤは成程と肯いた。そして、はっきりと口にした。
「ディナスさま、子どもたちと一緒では、水族館や鳥類園、ダンスの見られる舞台の見物ばかりになりますわ。混雑する場所で、わたしは別行動を取れません」
やっと思い当たったように、アンドレーアスはがっくりと肩を落とした。
「ああ、そうですよね。お子様たちはフロイラインが好みそうな展示には退屈しますよね」
「ごめんなさい」
アグラーヤは本当に済まなそうだ。当人としても興味のある品々があるだろう。ローンフェルト夫妻に申請すれば、自由時間や休日をもらえる。かといって、巴里への移動や滞在の費用は夫妻持ちなのだろうし、何より気紛れな子ども相手の仕事をしているのだから、気に掛かることが多いのだろう。
付け加えるなら、俺はアグラーヤを『ティユル』に連れていくか、或いは伯母の一家をここへ連れてきてアグラーヤに紹介できるかの課題をまだ示していない。
アンドレーアスには悪いが、俺にはそちらの方が優先事項だ。アンドレーアスがそれなら別の日にお約束をと言い出す前に、言わなくては。
「巴里の名所とは違いますが、一昨日、シャン゠ゼリゼ大通りから折れた、別の通りにある、『ティユル』という洋裁店に行きました。
フェリシア伯母が言っていた、ベルンハルト伯父の家族がいる店です」
アグラーヤは目を見張って喜色を露わにし、アンドレーアスは聞いていないぞとばかりにいぶかしげに俺を見た。




