八
俺が促し、ベルナデットが無言だったので、マリー゠フランソワーズは語りはじめた。
わたしは巴里の生まれではないの。もう少し南に下った田舎の出。そこで伸び伸びと育って、或る家の息子さんと恋に落ちたの。これはベルナールではない人。いいお家の人で、跡継ぎのお兄さんに多くを相続させる為に、親御さんは二男のあの人に持参金を沢山持ってきてくれるお嬢さんと結婚させようとしていたの。その頃は世間知らずで、狭い世界で生きていたから、逆らってまで一緒になろうなんてできもせず、嘆くばかり。二人で嘆いていると盛り上がってしまうのが恋の常ね。
親御さんはわたしにお金を渡すから、息子と別れてくれとわざわざ家にまで来て、言った。受け入れるしかないと諦めたのだけど、わたしが裁縫が得意で、繕い物だけじゃなく、色々と服を仕上げているのを知って、もしきちんとした勉強をしたいのならその援助してやろうと条件を加えてきた。あの人と一緒になれないのなら、一生独りで生きていくのだから、それで身を立てていこうと決心して、申し出を受け入れたわ。
巴里に出て、有名なお店を紹介してもらって、お針子をしながら、色々と裁縫だけでなく、布地の特徴を覚え、意匠を学び、お客のあしらい、後輩の指導や、商品とお金の管理なんかを頭に入れようと必死になって働いた。
わたしが巴里に出たと知って、あの人は追い掛けてきて、なんて言うのかしら、決心なんて脆くてまたお付き合いをしはじめたわ。そのうち子どもができた。あの人には教えなかった。
あの人はお坊ちゃんで、恋する気持ちは本物でも親に逆らえないと判っていた。だから、この子どもはわたし一人の子ども。一人で育てようと考えた。そうして生まれたのがマリー゠アンヌ。お腹が大きくなってくれば、秘密にしておけなくて、結局あの人にも親御さんにも知られてしまった。でも親御さんたちだってお腹の子をどうこうできなかった。幾らか養育の為のお金を恵んでくれて、それであの人とは完全に切れた。なんとか手元に余裕を与えてもらえたから、子守りをしながら、周囲に子守りを頼りながら、働けた。お囲い者に近い暮らしをしているお針子がほかにもいたから、特に居心地悪い訳ではなかった。それでも子を持って働く者はわたしぐらいだった。
アンヌを育てながら、夢中で働いて、洋裁店でそれなりの責任の重い仕事を任されるような人間になれた。十代後半で巴里に来て、もう三十を過ぎていた。お針子は店に入ってくる子は多いけれど、辞めていく子も多い中、わたしは洋裁を仕事にして生きていくんだと、辛くても仕事を投げ出さなかった。
以前からファッションの新聞や雑誌があって、それは最新モードの絵ばかり入っていて、巴里にお住いのご婦人たちは勿論、各地方にお住いのご婦人たちにも売れていた。写真ではそう何枚、何十枚と撮影するには時間も費用もかさむし、部数を作れない。細部や色の再現に向かないから、今でも絵を使って紹介しているでしょう? 絵を描く職人さん、絵描きさんが当然いる。なんていうのかしら、肖像画や風景画で食べていけない若い画家志望の人もそうやって、お小遣いを稼いでいた。
ある時、店にモードの絵を描くからと、雑誌社の人とやって来たのがベルナールだった。
わたしはベルナールを一目見て、この人はお客様じゃないのかしらと首を傾げたわ。服装はいかにも生活に苦労している画家の卵さんといった恰好だったけれど、背が高くて、身のこなしが上品で、顔立ちも美男子で、生活のやつれを感じさせない気品があった。
え? 一目惚れしたからじゃないかですって? まあベルナデット、話には順番があるわ。
ベルナールは、「ベルンハルト・フォン・リンデンバウム」と礼儀正しく名乗った。“von”が付く。わたしは、ドイツ連邦のどこかの国から巴里に遊学しに来ている貴族のお坊ちゃんが賭博ですっからかんになったか何かで、実家からの送金が間に合わないから、日銭稼ぎに来たのかと早合点して、意地悪な気分になって、つい、言ってしまった。
「あら、お坊ちゃんの道楽で絵を描いていらっしゃるのでしたら、ほかの苦学している画学生に譲ってやらなくちゃ」
ベルナールは怒ったわ。ドイツ語のアクセントの抜けないフランス語でそれはもう。
「冗談じゃない。道楽でこんな所に来るものか!」
思わず言い返した。
「こんな所とは何ですか!」
最悪の出会い方をしたのに、何故か、ベルナールはきちんと絵の仕事を終えてからも、わたしに会いに来た。驚いたことに、かれはこう言ってきた。
「私と交際して欲しい」
からかわれているんじゃないかと心配になったわ。




