六
中庭に出てみたが彼の女らしい姿はない。湖畔の方に向かったのだろうか。食堂側のテラスへ出る扉は閉められている。鍵は掛かっていなかった。
食堂にいた給仕を呼び止めた。
「この扉の鍵は閉めないのか」
「お客様が食堂にいらっしゃる間は、閉めません。夜風にあたりたいと仰言る方もおいでですから」
「今、金髪で淡い青の服の女性が出ていかなかったか?」
「出ていかれました」
「俺とその婦人が戻るまで閉めないでくれ」
「はい」
給仕に心付けを渡して、外に出た。
テラスを下りて、湖の方へ歩いていくと、アグラーヤがベンチに座っているのを見付けた。
「フロイライン・ハーゼルブルグ、貴女には待ち人があるのですか?」
アグラーヤは俺を認めて、ハンカチで目元を拭った。
「あなたを待っているとお考えなら大層な自惚れですよ」
俺は肩をすくめた。
「まさか。でもどうして貴女は部屋に戻らずこのような場所にいるのですか、まるで誰かに探して欲しいとお考えのように見受けられます」
「わたしは、わたしを噛み殺してくれる獣を待っているのです」
「獲物のいない冬ならともかく、夏に狼も熊も人の住む所に下りてくるとは思えません」
アグラーヤは何事か考え込むように押し黙った。
「フロイライン、隣に座っても?」
「どうぞ」
俺は遠慮せずにベンチに掛けた。足を組んで、暗い湖面を眺めた。灯で微かに照らされ、見ようによっては不気味かも知れなかった。
「私は貴女の事情を知りません。伯母の家に貴女が駆け込んで来た時は、親戚の公爵との縁談がどう、と噂を聞くだけでしたが、それから五年近く経って、お辛いことがあったのですか」
「辛いというより、身から出た錆ですわ」
促しもせず、俺は湖面を眺めつづけていた。
「お聞きになりたい?」
「貴女が話すことで気が紛れるのなら、どうぞお話ください」
「意地悪なことを仰言るのはお変わりになりませんね」
アグラーヤは自嘲気味に笑った。
「シュタウフェンブルグ公爵とはもう何もありませんの。あの方のお心は別の女性に向けられたままです。わたしが気に掛けていても、相手にしてくださいませんでした。挙句に旅行先で大病を患って、もう寝たり起きたりの生活なのだそうです。お世話をする使用人は幾らでもあるお家ですもの、呼ばれもしないのにお訪ねしません。
わたしは、ポーランドの方から交際を求められました。伯爵と名乗っておられましたが、実際はプロイセンの貴族に寄食なさって生活しているような方でした。でも、祖国の為に何事か為したいと望んでいる方でした」
ポーランド――、プロイセン、ロシア、オーストリアに分割され、またナポレオンによってワルシャワ大公国として復活しても、ナポレオンの没落とともにまた、大国の外交の名の下にロシアの圧政下にある国。
「わたしはその方のお陰で世間に目を向けるようになりました。自分の恵まれた環境、それに対して苦境にある人々。この世の中の矛盾を解決するのにはどうしたらよいか考えるようになりました」
「……」
「生まれた国に戻れないし、他国が支配している。また、同じ人間なのに、働いても働いても報われない人たちがいる。
自らが行動して、勝ち取らなければ、世の中は変えられない」
「それは貴女やそのポーランドの伯爵の発明ではない。多くの人が蜂起し、流血とともに築き上げてきた」
「そうですね。でもまだ足りていませんでしょう」
「それは肯定します」
「わたしは自らの考えや行動が浅薄なのは重々承知です。それでも何もしないではいられませんでした。
それで、そのポーランドの方と一時期起居を共にしました」
俺は驚いて、アグラーヤを見た。今度はアグラーヤが湖面へ視線を注いでいる。
「でも、結局のところ、父に家に連れ戻され、あの方はプロイセンに去ってしまわれました。
お判りですか? ハーゼルブルグ子爵の三女はとんでもない醜聞の主で、一家の厄介者。姉のアデライーダはわたしの所為で縁談が来ないと憎んでいるのです」
決然とした様子に、下手な慰めは無用のようだ。
「貴女はほんの一時期にせよ、ポーランドの伯爵と結婚してもいいと、一緒にいたのでしょう?」
「はい。今となってはあの方はわたしを愛していたのではなく、世間知らずの娘を利用してカレンブルクで社会活動の拠点を作ろうとしていたのだろうと思えるのです。それが悔しくてならないのです」
愛情なんて薄っぺらな言葉だけでできている。
「しかし、貴女は修道院に入るでもなく、こうやって生きている。生きる意思がおありなのでしょう」
「ええ、死ぬものですか。好きなように生き切ったと言えるようになるまで、死んでたまるものですか!」
ああ、やはり変わらない。この強い生命力を感じさせるじゃじゃ馬娘を屋敷の中に閉じ込めようとしたところで無理な話だ。イギリスのナイチンゲールとかいった女性が家族の反対を押し切って遠い戦地に赴き傷痍軍人の看護をしたように、どこかにきっとまた飛び出していくだろう。
「安心しましたよ」
「何がです」
「貴女は世間体に負けない。また世の中に出ていこうとするでしょう」
「そうできれば幸いです」
「お気が済んだのなら戻りましょう。お部屋までお送りします」
「はい、一応わたしの手を引いてくださいますか。姉や母がうるさいのでお願いします」
「ええ、労力がかかりませんから、構いません」
二人で可笑しくて笑いながら、立ち上がった。俺の差し出す左手にアグラーヤは右手を乗せる。
こうして、俺は子爵令嬢を礼儀正しく親許に送っていった。