十
もう泣かないだろうと、こわごわベルナデットの顔を覗いた。
「貴方の優しさに感謝いたします」
天敵のいない場所で寛ぐ小鳥はこんな気持ちなのだろう。前線にいたのが後方で休めるようなというか、小石を投げ入れて小波の立った湖面の揺れが消えていく様子に似た気分だ。
「もう泣かないでください」
「はい、大丈夫です。ご迷惑をお掛けしました、ごめんなさい」
率直なのはいいことだ。
「貴女はもっと自信を持っていい」
「貴方が仰言るのなら、そのように振る舞えるように努力します」
「そうしてください」
俺の一言がベルナデットの涙を何故誘ったのか、知りたかった。しかし、簡単に彼の女が簡単に答えられる事柄なのか、慮った。嬉しいからと言っても、そんなに感激しやすい幼さはなさそうだし、毎日鏡を見ている女性の心理は難しく、年齢的にも複雑な何か――過去と言ってもいい――を抱えてきているはずだ。お友だちになろうと言っても、二、三度あった程度の異性の外国人に、いくらお喋りな女性でも、そこは用心するだろう。辛い出来事を含む話ならもっと打ち解けないと打ち明けないものだし、俺がそこまで一人の女性に関わる気になるか、曇天の日の雨支度のようにはっきりと判断できない。
しばらくベンチで休んで、もう切り上げて送ろうかと申し出たら、水族館がまだですよと返事をしてきた。元気が出たなら、それでいい。
「折角来たからと張り切ってしまう方なんです」
俺と違って、巴里のあちこちを見て回るのが仕事ではないから、入場料を払って来ているのに、見過したら惜しいと思っているのだろう。疲れても回れるだけ回って見てみなければ詰まらない、腕を貸し、飲食物を奢ってくれる俺も付いているから尚更だ。
こう考えるのは女性のみならず、男性だって懐が寂しい奴は同様だから、不快ではない。むしろ察して欲しいと、くどくど遠回りに言葉を並べられるよりも、自身の欲望をきちんと伝えてくるのは好ましい。これは育ちがいいの悪いのは関係ない。相手が読み取れなかったら、婉曲表現も無駄に終わると知っているかいないかだ。
ここで俺が断れば、一人で見学するか、お開きにするかは彼の女が決める。
「貴女が行きたいのなら、私もご一緒しましょう」
「ああ、良かった。面倒だと、嫌われたどうしようかと心配でした」
ベルナデットは朗らかさを取り戻した。面倒な所の無い女性はいないが、今のところは嫌う理由がない。俺はまた彼の女に腕を貸す。
水族館に入って、水槽で泳ぎ、またじっとうずくまっているような魚や貝類、市場や厨房で見たようなものから、見たことの無い不気味なものまで、薄暗い洞窟のような作りの中で、興味深く見物した。不気味な水生生物には、ベルナデットが小さな悲鳴を上げていた。ぐっと腕にしがみついてきて、子ども向けの幽霊屋敷の見世物ではあるまいしと、俺は笑いを堪えなければならなかった。
だが、ベルナデット以上に驚く瞬間があった。二人並んで歩き、水槽に二人の顔が映った、その姿。
彼の女を初めて見掛けた時に、どこかで会ったような懐かしさを感じたのも道理だ。そもそもどうして今まで気付かなかった?
ベルナデット・ド・ラ・ヴァリエール、彼の女は伯母に、フェリシア伯母に似ている。そして俺にも。
俺はベルナデットに伯母や鏡で見出す俺自身の面影をベルナデットに見たのだ。
ラ・ヴァリエール、ベルンハルト伯父と結婚したお針子の姓がそうだったではないか。ベルナデットはベルンハルトのフランス語ふうの女性名。
フランス語では発音どころか綴り自体がドイツ語と全く違っているが、こうして連想していくと納得できる。彼の女の母の持つ洋裁店の名前の『ティユル“Tilleul”』はフランス語の「菩提樹」だ。
つまり、間違っていなければ、ベルナデットは俺の母方の従姉妹だ。
職務の為に巴里を回る前に、義理の伯母に挨拶に行くべきだった。そうしていれば、俺はライン川の難所で流される小舟の気分を味わわなくて済んだ。
女に気を取られるとは不覚だ、本当にロクなものではない。だが、今からこの道筋から抜け出せるか?
参考文献
『バラの誕生』 大場秀章 中公新書
『ペルシア王は「天ぷら」がお好き?』 ダン・ジュラフスキー著 小野木明恵訳 早川書房
『アガサ・クリスティーの晩餐会』 アンヌ・マルティネッティ&フランソワ・リヴィエール フィリップ・アッセ(写真) 大西愛子翻訳 早川書房
『セーラー服とエッフェル塔』 鹿島茂 文春文庫
『お菓子の手作り辞典』 今田美奈子 講談社




