十
「おまえにとって俺はその次程度だとよく判ったよ。だが、ビールを一緒に飲むにはいい相手だよ。大使館じゃワイン好きばかりで、堅苦しい」
「あんたが堅苦しいと言うくらいだから、大変だな。王様や王子様とお話するのが仕事の大使のいる場所ではビールは好まれないのか」
フランス人のように肩をすくめてみせた。
「残念ながら、お好きな方はこっそり飲むのさ。オーストリア皇妃みたいにワインよりビールとはっきり主張する方の方が珍しい」
「好きな物を好きと言えないのでは、身分が高くても楽しみがないな」
「好き放題していたのが大勢いたから、この国で革命が起こったんじゃないのか?」
アンドレーアスはふと考え込んだ。
「一つだけの原因で社会がひっくり返るほど、世の中は単純にできていない」
「確かに要因が一つだけと決め付けられない。しかし、額に汗して働かなくていいのは何の為なのか、忘れては上に立つ意味がない」
「尊き責務……。それについちゃ俺は税金だけで勘弁してもらうよ」
「ああ、税金。尊い義務だ」
どちらともなく笑い出した。
「ところで、オスカーは巴里で馴染みの女性はできたのか?」
「プロイセンから国王陛下が来て、帰っていったばかりだよ。そんな暇はなかった。何もかもこれからだ」
「大使館付きだと色んなご婦人と会う機会があるだろうが、フロイライン・ハーゼルブルグを忘れるなよ」
馴染みができたかと尋ねてきておいてその台詞はないだろう。まあ、アンドレーアスも子爵令嬢に気を遣うところがあるらしい。
「フロイラインは大切な友人だ。おまえにとってもそうだろう?」
しかつめらしい顔でアンドレーアスは肯いた。口に出さないが、全ての事情を飲み込んでいる。もしかしたらアンドレーアスはアグラーヤに気があったが、俺とのことを知って、諦めたのかも知れない。それなら悪いことをした。
どうにもならない激情が湧き上がり、止められなかった。生きていて、想いを分かち合う相手が側にいれば、求めずにはいられなかった。アグラーヤは家庭教師として身を立てており、アガーテはホルバイン子爵家の娘として育っている。俺は今彼の女たちに何もしてやれないが、将来は生活の手助けや財産の分与で関わっていこうと決めている。知らないまま過して、誕生の際におらず、祝福できなかった俺だ。ずっと影のまま、見守っていく。それが俺の義務。
記憶に残る女性に、フェリシア伯母がいて、アグラーヤがいる。現在俺の心の中で大きな存在となっているのはベルナデット。彼の女の面影は、初めて会った時から薄れず、記憶の中にあった。短期間だったが大仕事の後に偶然の再会をして、機会を逃したくなかった。強引であっても彼の女に自分を印象付けたかった。
アグラーヤを忘れたのではない。それ以上に惹き付けられる何かを彼の女は持っている。何かは判らないし、知ったとして意味があると思えない。
万国博覧会あらゆる分野の展示、あらゆる種類の生き物たちが息づく中で、観るに値し、知るに値したのはベルナデット一人だった。劇場で振り返らずにはいられなかった、生き生きとした明るい声音はどんな歌手の歌声よりも俺の耳をそばだたせた。巴里の魅力が全て宿ったように、彼の女はそこに存在した。
ベルナデットの声、瞳、白い手。思い出せばどんな美酒よりも甘美な酔いを感じる。
「オスカー、フロイライン・ハーゼルブルグは一種の憧れの君という奴だ。いくら家を飛び出して働いているといっても、歴とした貴族の令嬢だから、俺がどうこう思っていたって、手が届かない。身分を超えてなんて情熱も、思い上がりもないし、そこまでするほど惚れてもいない。
そう、大切な友人として長くお付き合いができればいいと思う、高貴な女性だ」
アンドレーアスの言は信じられる。
「身分違いは俺も同じだ。だが、できるだけのことはしていきたいと願っているのはおまえと同じだ」
そうだな、とアンドレーアスは呟いた。俺のアグラーヤへの友情は変わらない。
手で梳いた金髪の感触に名残りを感じながらも、艶やかな黒い髪と白い手を包み込みたい。握りしめた拳を、アンドレーアスが不思議そうに眺めた。




