六
一緒に回るとなると、衣料品や装飾品が中心になると思ったが、ベルナデットは折角来たのだから一通り絵画を観ていきたいと言ってきた。空いているブースだ。慌てず、ゆっくりと観ていこう。
サロンというのか、フランス画壇というのかフランスアカデミアとでも呼ぶべきなのか、そういった一派と、バルビゾン派と呼ばれる大家の絵画が並べられている。伯父は無名のまま終わったらしいから、探してみて、作品があるだろうか。
「マネという画家がここに作品を出せないので、別の場所を借りて仲間と絵を展示しているんですって」
「画家といっても色々いるようですな」
フランスの現役の画家の勢力争いや流行には、正直疎い。玄人受け、芸術家の後援をしたがるお歴々に受ける絵と、新しい画風を狙う者の絵は、題材も筆致も違うだろうとぼんやり想像するくらいだ。
「マドモワゼルはどちらがお好みなのですか?」
ベルナデットの絵のように整った姿を眺めながら尋ねた。
「観ていて、美しい、素晴らしいと感じさせてくれるのなら、どちらでも」
「そうですね」
素人には画家の個人の事情や画壇の理解より、どんな絵で魅了させてくれるかが重要か。滑らかな筆遣いで、夢見るような女神や天使を描くか、風景とともに日常を描くか、どちらも美事と感嘆させてくれれば、それでいい。
「写真機ができましたから、それで王侯や俳優、歌手の肖像を気軽に量産できるようになると、これから絵の描き方が変わってくるのでしょうね。これは風景画も同様でしょうが」
俺の言葉にベルナデットは真面目に耳を傾けていた。
「何かの物語で、どんな優れた絵描きでも人の魅力を全て描き切るのは到底無理だと述べられていました。でも人だからこそ機械が写した写真とは違うものを創りだせると思いませんか?」
「美の女神がピグマリオンの願いを叶えて、彫像に命を吹き込んで理想の女性を与えてやったようにですか?」
ベルナデットはおどけたふうに両手の親指と人差し指で四角を作って、俺の顔をそこから覗いた。
「ムシュウが気取って写真機の前に立つのと、画家の前に立つのとではモデルの気分も違うのではありませんか?」
「変わりませんよ」
「本当に?」
青い瞳が俺を射抜く。
「貴女なら私をどう描きますか?」
「わたしは画家ではありません。わたしだったら、描くのではなくて、貴方にどんな装いをしていただくかと考えます。どんな布地で、どんな色合いの、そして季節に合った装いを誂えるか、どんな小物を付け加えるか、ムシュウならどんな着こなしをなさるか」
彼の女の目で丸裸にされている気分だ。男が女に向けるような視線を、ベルナデットから向けられている。ただ、男が女に向けるのは欲望からだが、彼の女は職業的な美意識からだ。
彼の女の頭の中で、俺はどんな姿に着せ替えられているのだろう。裸婦像のモデルはどんな気持ちで画家の目の前に姿を露わにするのだろうかと、我が身に置き換え可笑しくなってきた。
「真っ赤な服でないよう祈りますよ」
「あらイタリア風で、斬新だと思いますよ」
二人で顔を見合わせ、笑った。久々に素の自分をさらけだして、今の自分をつなぎとめている役割を忘れた。
『源氏物語』の『桐壺』の中で、『絵にかける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければ、いとにほひ少なし。』とあります。この時代にヨーロッパにまだ『源氏物語』は紹介されていませんし、この場面の基になった『長恨歌』の紹介も恐らくまだだったでしょう。しかし、ロマン主義時代の文芸にありそうな表現として、台詞に入れてみました。
引用は新潮社の『源氏物語一』(新潮日本古典集成)から。