三
足が釘付けされたように動かない。今日は軍服ではない。かといって変装しているのではなく、普段の自分の私服だ。誂え物を着たそれなりの恰好をしている。
あの晩、俺は本名を名乗った。だが、プロイセン大使館詰めの軍人とまでは告げていなかったはずだ。プロイセンから出てきたばかりの田舎領主の坊ちゃんふうにしていた。今の姿はそれと矛盾ないだろう。大丈夫だ。彼の女――名前を知らない――に、怪しまれはしない。
どうした?
俺はあの女性と言葉を交わしたいと欲しているのではないか。何を迷う? 挨拶をしてみればなんとかなるだろう。
幅の狭い板切れの上でも歩かされているかのように、俺はゆっくりと黒髪の女性に近付いていった。
丁度展示物についての話が終わったらしく、係員が彼の女の側から離れた。ふと、彼の女の視線が俺へと向けられた。俺は帽子の鍔に手をやった。
“Bonjour,Madame.”
“Bonjour,Monsieur.”
挨拶を返してから、彼の女は可笑しそうな顔をした。
「以前お会いしましたよね?」
彼の女も俺を憶えていてくれた。胸の重しが取れたように、力みが抜ける。
「シャン=ゼリゼ通りとイタリア座でお会いしていましたよね?」
彼の女の方の記憶がより詳しい。さて――。
「イタリア、コミック=オペラ座でお会いしたのは憶えているのですが、シャン=ゼリゼ大通りでもお会いしておりましたか?」
彼の女は、まあ、といった感じで軽く睨んだ。
「わたしはあの時荷物を抱えていましたから、ご記憶ないのかも知れませんわね。それにすれ違っただけでしたから」
シャン=ゼリゼ大通りを行き来して、何人の女性とすれ違ったかまでは数えていないし、特に印象に残った女性もいなかった。思い出した振りをしたところで、お喋りを続けるだろうし、こういった嘘を女は嫌うからしないのが賢明だ。
「わたしは軍人さんのように姿勢が良くて、着こなしの素敵な殿方が歩いていらっしゃるとすれ違う時に感じたので、覚えておりましたの。その方をイタリア座でまたお見掛けできました……」
やや間を置いて、彼の女は微笑んだ。
「あの晩は少し嬉しかったですわ」
「少しだけですか?」
「さあ?」
流石にフランスの女性だ。男に気を持たせるのが上手い。
「今はどうなのですか?」
「ムシュウ・アレティンとお話したくなければ、こうしておりません」
青い瞳が真直ぐに俺を見る。
「名前を憶えていてくださって光栄です。私といるのが不愉快でなければ、お名前を教えてくれませんか?」
どうしましょうか、と彼の女は俺を試すように呟いた。親し気に会話をしていながら、警戒して見せるか。全く女って生き物は勿体を付けるのが好きなようにできている。何もこの場で取って食おうなんてしないし、攫ったりもしない。
俺を知らない彼の女が俺をどんな人間か見極めたいと、頭を巡らせているのかも知れないが、少なくとも俺が悪党ではないくらい見れば判るだろう。
いや、これは俺の自惚れか。彼の女にとって俺は異国人で、ほとんど初対面に等しい。興味を抱いているとしても、付き合ってみて大丈夫かと量るのは、自身の名誉の為にも正しい行為か。
余程俺が不安そうに見えたらしい。彼の女の表情が変わった。
「わたしはベルナデットと申します。今はそれでいいでしょう?」
悪戯っぽい、しかし、少しの不安と優しさを含んだ眼差し。
「それにわたしは、マダムじゃありません」
「それは失礼、マドモワゼル。お詫びします」
「立ち話もおかしいですから、どこか座れる場所に行きませんか?」
「ええ、マドモワゼルの仰せの通りに」
女に乗せられているのも面白いか。左腕を輪にして差し出すと、ベルナデットはすっと右手を重ねてきた。久し振りに暖かさをこの身に感じた。