二
国王陛下たちをお見送りした後は、片付けや報告書作りでその日は暮れた。国家の重鎮方が去り、駐在武官が護衛すべきはゴルツ大使たち大使館の要人数人と、元に戻った。あくる日は珍しく雨だ。
昔よりはマシになったと言われているが、巴里の街の泥が服に付くと厄介だ。臭いも真っ黒な色も落ちにくい。ガラスの天井を巡らしたパサージュでは雨天でも気兼ねなく買い物ができるが、空を眺めていて、出掛ける気がすっかり失せた。
シャン・ド・マルスの万国博覧会を見物しながらヨーロッパ諸国の物産を知り、国力の比較をするもよし、巴里郊外に残る古い城壁がどの程度役に立つ代物なのかを観察するもよし。それとシャン=ゼリゼ近くのコリゼ通りの店に行ってみても、巴里市街の視察と言って支障がないのでそれもよし。
私事よりも仕事優先と判っていても、頭の中でどの順番がいいのかとぐるぐると回り、まとまらない。
葡萄酒だけでは面白くないと、ブランデーを飲んでいるので尚更か。
気分を改める為に、万国博覧会に行ってみようか。珍しい動物や雑貨を見れば、商売の種を思い付くかも知れないし、無心な子どものように楽しめるかも知れない。どうせ万国博覧会は幾人も訪れていて、考察の報告書は上げているだから、俺らしい見方をするかどうかしかない。
そう決めてしまうと気分が軽くなり、酒が美味くなる。
しかし、飲み過ぎた。次の日は雨が止み、曇天だったが、俺は宿酔いで一日無駄にした。
「一仕事終わったからといって飲み過ぎるとは、しかも一人の部屋飲みでそこまで飲むかね」
ハウスマン少佐からは呆れられた。
「天気の回復と一緒で、貴官も回復するだろうから、のんびり、いや、仕事としてきっちり報告できるように回ってくるんだね」
入場料の切符を失くさないようにしてくれと、経理らしく一言付け加えていった。
一日では回りきれない展示物の量であると聞くし、各国からの名物の食品を揃えた食堂が様々な場所にあり、本格的なトルコ・コーヒーや清や日本の緑茶、オーストリアやバイエルンからのビールやヴルストが食べられる。今までの仕事では回れなかった見物場所をゆっくりと観て回ろう。オリエントの国々の出品をシャン・ド・マルスに行って、直に観られる機会を逃しては詰まらない。
フランスの葡萄酒も水も悪くないが、ビールも恋しいことだし、何回か通ってみても文句は言われまい。
天気が回復するだろうとハウスマン少佐は言ったが、曇りが続いた。暑くなるこの時期、雨に降られないだけましだろうと、万国博覧会会場へ向かった。
開場の入口には天幕が張られて、天候に左右されずに並び、入場できるようになっている。入場料を支払い、中に入る。会場の半分は開催国のフランスの展示だ。さて、左右に分かれている開催国の展示と、海外からの出品と、どちらから観ていこうか。
やはりフランスかな?
北仏地方から始まり、巴里、南仏と展示が並ぶ。楕円形をした同心円の展示場。外側から機械工業、手工業、工芸品や美術品と揃えているらしいから、円周に沿って地方や国ごとの工業を見比べても、その国の名産や特徴をと外苑から中心に歩いていっていいように工夫されている。見物する側は好きな回り方ができる。
アルザスやノルマンディーの物品を観て、次がフランドルや巴里となるようだ。機械での織物といったらイングランドの毛織物が始まりとなるが、フランスの毛織物や絹織物も大分盛んになったのだと、ここに来て知らされる。病気でフランスの蚕が壊滅寸前になったらしいが、日本から蚕卵紙をなんとか買い付け、また清や日本からも生糸を仕入れて、織物や染め物をしている。繊維を取り出し、糸に縒り、それを布地にしていく作業は気の遠くなるような時間が掛かる。今だとて、子どもを長時間働かせているだの、安い賃金しか支払われていないだのと問題は出ているが、大量に、そしてある程度、納得できる価格で市場に出回り、庶民も古着屋に頼らず新品の服を買えるようになってきているのだから、文明の利器の活躍は目覚ましい。
低温殺菌で牛乳を遠隔地から都市部へ運送できるようになったという科学者ルイ・パストゥールの業績の展示。同じ手法で葡萄酒やビールの風味を損ねずに腐敗を防げるようになった。いくら鉄道網が発達しても、牛乳のような新鮮さが大切な食料はその朝の内に配達しなければならなかったが、これで都市部郊外の酪農家だけを頼らずに済むようなった。
各国の軍艦や大砲の比較は忘れずにするつもりだが、こういった兵站面の進歩だとて大切だ。なにしろ壜詰は現在の皇帝の伯父の時代に考案された軍用食だ。それが発展して缶詰ができた。
絹織物と婦人服の展示は眺めるだけでいいかと通り過ぎようとしたが、足が止まった。熱心に展示を見詰め、係の者と話をしている女性から目が離せなくなった。
こんな所で再び見えようとは思わなかった。オペラ=コミック座のロビーで出会った黒髪の女性。




