一
嵐のような六月の十日間が過ぎた。ロシア皇帝と大公たちは無事に聖彼帝堡にお戻りになり、ロジェフスキはお召列車と一緒とはいかなったが、遙かな都に去っていった。任務をともにした仲間を見送り、密度の濃かった時間が終わると、達成感だけでなく、大きな喪失感と泥のような疲労が両手・両足を掴んできた。
報告書をまとめて、昼過ぎまで眠りこけていたが、ヤンセン曹長に起こされた。
「本日は大使館を会場にして舞踏会があります。国王陛下や王太子殿下、妃殿下がご臨席です。フランス皇帝やほかの国々の貴賓方をご招待されていますので、警備の手はいくらあってもいいのだから起こして呼んで来いと、シュタインベルガー大佐の命令です」
任務が終われば駐在武官の務めをしろとは容赦のない。
「もう少ししたら起きる」
また寝入るのではと曹長なりに気になっているのだろう。
「国王陛下もじきにご帰国ですから、もうちょっと頑張ってください」
「了解した……」
「ちゃんと起きてくださいよ、大尉!」
ヤンセン曹長は音高く扉を閉めて出ていった。曹長も忙しいんだ、きっと。
夜の舞踏会の前に警備の打ち合わせがあるだろう。俺は両手で顔を叩いた。しゃっきりしろ。顔を洗えば目が覚める。
顔を洗い、しっかりと身支度を整えた。さて、巴里の伊達男に劣らぬぐらいに仕上がったか。シュタインベルガー大佐の執務室に行くと、大佐は会場の見取り図を広げていた。
「アレティン大尉は会場の北側の警備を担当してくれ。開会の前に会場に皆で揃って配置を確認するので、その時間までに準備していてくれ。下調べに見回ってみてもいいが、厨房や会場の飾り付けをしている者たちの邪魔をしないようにしてくれ、かれらも忙しい」
それは十二分に心得ている。指示が細かくなっているあたり、大佐は大佐で苛立っているようだ。
大佐がふと俺の顔を見直した。
「お疲れだろうが、総参謀長閣下もお出でだ。貴官も挨拶しておきたいだろう」
「お心遣いいただき、有難うございます」
どこまで本音か読めないが、礼を言っておこう。
今月は様々な行事や宴席が続いており、開催する方も招待する方も飽きているような気もするが、それを支える者たちが手を抜いていてはいられない。またベリゾウスキの如き輩が出てこられては迷惑千万。
開場の前に武官が揃って警備場所や交代の時間の打ち合わせをし、大佐は近衛兵の士官とあれこれと言い合っている。陛下や殿下は近衛兵が付くが、ほかの貴賓の担当は身分からしてここまでは近衛兵を充てるので良かったのだねと、聞こえてくる。フランス皇帝も護衛の近衛兵を連れてくるに決まっているが、迎えるこちら側で二等兵を皇帝の近くに控えさせていたら気分が悪くなるだろう。
舞踏会は無事に始まり、無事に終わった。ナポレオン3世は国王陛下や宰相閣下と向き合い、外交上の駆け引きに夢中になっているようだった。ビスマルクが来ているのに、美女を追い掛けまわしている場合ではないと、この皇帝も判っているのだ。日本の小さな公子は物珍しそうにちょこまかしていた。
会の最中にモルトケ大将閣下から声を掛けられた。
「ロシア部との協力は上手くできたようだね」
俺を覚えていてくださった。その一言で報われたような気分になれた。俺も存外単純にできている。
初夏の巴里での予定を全てこなされて、国王陛下は王太子殿下と妃殿下、宰相閣下と総参謀長閣下を引き連れて、ご帰国の途に着かれた。