十五
巴里でもヨーロッパのあちこちでも大きな出来事が続いた。翌日は巴里の市庁舎での大舞踏会があり、またまた来仏中の王侯を招いての朝まで大騒ぎだ。同じ日には、倫敦で開催されていた会議でフランスはまた外交で面目を失った。オランダはフランスにルクセンブルクを売却せず、この大公国は永世中立国となると決着が付いた。六月八日には、オーストリア帝国のフランツ・ヨーゼフ1世がブダペストでハンガリー国王として戴冠し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。
各国からのニュースを耳に入れながら、皇帝陛下や国王陛下たちは行事の合間合間にのんびりと休息を取り、万国博覧会をご覧になり、ヴェルサイユ宮殿を散策して回りと、実に優雅にお過しになった。
六月十日のテュイルリー宮殿の舞踏会と大晩餐会が終われば、ロシア皇帝一家は聖彼帝堡にご帰還遊ばす。俺の仕事もここで一段落だ。
巴里の雰囲気はアレクサンドル2世の豪胆さに救われている。狙撃事件があったものの、逃げ帰りもせず、予定通りに行事に顔を出し、巴里市内を観光して身を晒し、身の縮む思いをしていた市民を励ます結果となった。
アレクサンドル2世を狙撃した犯人は警察が発表し、新聞にも詳細が掲載された。ベリゾウスキという二十歳の波蘭土人で、巴里で機械工をしていた。使嗾する者も共犯もなく、全くの単独でしでかしたと供述している。少年のうちに故国を離れて働く貧しい暮らしをしている中に、麗々しくロシア皇帝が巴里にやって来たのを見て、殺意が湧いてきたそうだ。ブールヴァールの往来で皇帝と目があっただのなんだの言っているが、いちいち沿道の観客を誰だか王侯が気にするはずがない。自分が波蘭土人と気付いたような視線を向けられたと抜かしているようだが、そんな程度で拳銃を向けられては堪ったものではない。フランスに迷惑を掛けるとは思ってもみなかった、狙ったのはアレクサンドル2世だけでナポレオン3世を害する気はなかったと、涙ながらに謝っていると記事に出ている。おまけに二回目に引き金を引いた時に銃は暴発して、ベリゾウスキは手に大怪我をした。武器を持ったからといって、使い方を誤れば、自分に跳ね返ってくると夢にも知らないのが、素人のかなしさだ。
報告書をまとめ、今回ともに行動をしていたロジェフスキともお別れとなる。
「部の異動や不慮の事故がなければ、また参謀本部で会う機会があるだろう」
「貴方とはぜひまた会いたいですね。勉強になりました」
「この季節は皇帝の身辺に貼り付く仕事だったが、今回の狙撃犯みたいなのを探るとなると、どんな格好をするか判ったものじゃない。お勉強もほどほどで済むといいな」
皮肉っぽい言い方を忘れない男だ。
「どうか壮健でお過しあれ」
「有難う、大尉」
かつて花の都と呼ばれた波蘭土の都ワルシャワ、そこを越えて聖彼帝堡に戻るか。
花の都と称される土地はその時代その時代で変わりゆく。今はこの巴里がその名前を冠しているが、伯林や昴もどう変容していくのだろう。ゲルマニアやエウロパの繁栄が人間の愚かさで、花の散るように、青葉が枯葉の舞うように、過ぎゆかぬことを祈り、願わくば、滅びをこの目で見ぬようにいたい。
初夏から盛夏へと進むこの季節のような都市の華やぎが、簡単に吹き消されるような灯火ではないと信じよう。今、ここで俺も、大切に思う人たちもこの大陸の中で生きているのだから。
参考文献はいつも通りに後書きに掲載しています。作者惠美子より。
参考
『貴婦人が愛したお菓子』 今田美奈子 角川文庫
『澁澤栄一滞佛日記』 大塚竹松編 日本史蹟協会 国立国会図書館デジタルコレクション
『徳川昭武滞欧記録』 大塚竹松編 日本史蹟協会 国立国会図書館デジタルコレクション
『幕末維新パリ見聞記』 成島柳北「航西日乗」・栗本鍬雲「暁窓追録」 井田進也校注 岩波文庫
『渋沢栄一渡仏一五〇年 渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く』 渋沢史料館
アレクサンドル2世はその後の1880年6月に妻のマリア皇后がなくなると、7月にエカテリーナ・ミハイロヴナ・ゴトルーコヴァと結婚します。貴賤結婚ゆえにエカテリーナは皇后を名乗れず、その子どもたちに皇位継承権は与えられませんでした。1881年3月、アレクサンドル2世は爆弾を使ったテロで暗殺されます。エカテリーナとその子どもたちは宮廷から年金を与えられて、ロシアを去ります。エカテリーナは1922年、ロマノフ家が滅んだ後に亡くなりました。




