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君影草  作者: 惠美子
第十八章 祭りの始末
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 エカテリーナ・ミハイロヴナ・ゴトルーコヴァ公爵令嬢がアレクサンドル2世と初めて会ったのは十二歳の時だったという。皇帝が軍事演習の視察での行幸の際に父ゴトルーコフ公爵の邸宅に立ち寄ったのが縁となり、その六年後 (サンクト)彼帝堡(ペテルブルグ)のスモルニイ女学院への訪問で勉学中の公爵令嬢と再会、皇帝は落ちぶれ貴族の娘を自分の手元に置くようになった。

 今でもすらりとした長身で身のこなしの若々しい皇帝の姿に、十二歳で初お目見えした小娘が尊敬の念を抱くのは当然としても、縁談の話が出始めてもおかしくない年齢で妻のいる皇帝から側にいるように申し出られて、有頂天になったか、日陰の身になるのに不安を抱いたかは知らない。しかし、断れない申し込みだ。

 楽しんでいられるうちはいい。世の中恋愛だけで仕合せになれるような仕組みにできていないのだ。

 皇帝の寵愛が一時の気紛れでなく、続いているのは「カーチャ」にとってさいわいだ。だが、宮廷での立場を考えれば、皇帝は罪作りだ。君主の愛人は、フランス宮廷でのかつてのポンパドゥール女侯のような存在ばかりではない。正式の后や嫡子から疎まれ、宮廷中から軽蔑の目で見られる方が多いのだ。頼りは君主の寵愛だけ。

 俺が自分の子でなかったらどれほど良かったかと、父は言った。母の乱倫の結果の子であれば、見捨てられた。しかし、俺は母が情人を得る以前の子、自分の子だから捨てられない。だが、愛しても愛情を返してくれず、ほかの男に走ろうとした女と女の子どもを、許そうとしても許せず、愛する以上に憎む、二律背反に苛まれ続けた。母は母で何もかにも絶望していた。

 この俺がロシア皇帝の野合を目の当たりにするとは皮肉なものだ。

 花々が咲き誇る軽やかな大気の季節であるのが、かえって苦々しい。

 病床のロシア皇后は、ただの政略で顔も見ずに嫁いだのではない。一応は、アレクサンドル2世が皇太子時代に、欧州の周遊中に出会い、恋愛感情を理由にしてヘッセン=ダルムシュタット大公国の大公女に結婚を申し込んだ。情熱家といえば聞こえがいいが、惚れっぽくて気が多い男なのだろう。ほかにも若い頃や、結婚後の恋愛の話は出てくる。専制君主だから何をしてもいいと信じていないと、本人はのたまうかも知れない。だが、身近な存在を傷付け続けている。

 家族に裏切られ、傷を受け、人間を信用してよいのか判らないままに生きている人間もいるのだと、頭のどこかに入れていてもらいたい。

 胸の焼け焦げるような気分を鎮めようと、生命の水(ブランデー)をグラスに注ぎ、あおった。酔いよ、早く回れ。酔ってしまえば何も心に浮かばず、何者にも悩まされずに済む。無機質の琥珀のような石に成り果て、深い川底に埋もれるように眠れる。

 一睡すれば、また気持ちを新たにできる。

 明けて六月三日、晴天だ。フリードリヒ王太子殿下が、ベルギー国王と、日本(ヤーパン)の公子と会見するそうだが、俺は大使らと同行せず、フランスふうに洒落た姿をしてブールヴァール近辺で、ロシア皇帝の動向を見張る。一昨日喜歌劇を観たヴァリエテ座その他の劇場もあれば遊戯場があり、一流の飲食店のカフェ・アングレもあり、ウージェニー皇后御用達の宝飾店のカルティエ、少し南へ下ればヴィクトリア女王御用達の香水の調香店ゲランがある。

 どこをどう回って遊ぶだろう。それとも腰を落ち着けてのんびりして、雰囲気だけを味わってエリゼ宮に帰ってくれるか。

 アレクサンドル2世と大公たちは間諜やゴシップ記者の期待どおりに動く義務はないので、存分に羽目を外していただきたい。

 琥珀は樹液の化石です。石としていのちの温もりのないとの意味で無機質の言葉を使いました。

 エカテリーナ・ミハイロヴナ・ゴトルーコヴァについては「番外」に挙げた参考文献、『ハプスブルク宮廷の恋人たち』(加瀬俊一、文春文庫)及びウィキペディアを参照しています。


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