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君影草  作者: 惠美子
第十八章 祭りの始末
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 フランスのご同業者が教えてくれたように、ナポレオン3世とアレクサンドル2世は競馬で十万フランの賭けをしていた。詳細は聞き洩らしたが、結果はアレクサンドル2世の勝ちだ。

 レースの終了後に皇帝たちの賭けの結果が大きな声で告げられ、次いで言葉が続けられた。アレクサンドル2世は賭けで得た十万フランをフランスの救貧院にそのまま全額寄付するとのことだ。

 一斉に歓声が上がった。ロシアの皇帝が勝ち逃げしてはかえって体裁が悪い。皇帝のあぶく銭、派手に使うにしても使い道がある。農奴解放で内政が上手くいっているのかどうかは何とも言えないが、庶民の暮らし振りに関心を示している(じん)だ。

 その日の公式行事は競馬場で終わりだ。人混みに紛れながら、軍服から着古したような服に着替えて、ロシア皇帝一家の通った道筋を確認しながらエリゼ宮に向かった。六月の陽光はいつまでも明るさを保っていた。夏至の前だ。埃っぽさと馬の蹴りで上がった土の匂いが、ブローニュの森を出ても付いてきている。エリゼ宮の近くを散策する振りをしながら周囲に耳を澄ました。

 薔薇や初夏の花々が咲き乱れ、瑞々しい香りがエリゼ宮の庭園から風に乗って流れてくる。気分も血の巡りも入れ替わるだろうかと、深呼吸をした。

 早朝の情景を思えば、若い大公たちはともかく、皇帝自身は大人しくエリゼ宮で過してくれそうな気がする。エリゼ宮の裏、使用人たちが出入りする場所にしばらく佇んでいると、(くだん)の清掃係が姿を現した。辺りに注意しながら俺に近付いてきた。

「昨日、今日と忙しかったんで、今晩はお出掛け無しと言っています。明日はお呼ばれがないので、またヴァリエテ座に行ってみようかと言っているようです」

「有難う。また何かあったら頼む」

 まとまった額の貨幣を手渡した。清掃係は金額を確かめて、満足そうにポケットに金を突っ込み、また辺りを見回しながら、エリゼ宮に戻っていった。

 やはり今晩は移動や行事の疲れで大人しくしていてくれるか。俺も一度大使館に戻ろう。

 大使館でゴルツ大使やロジェフスキに清掃係の話をそのまま報告し、エリゼ宮で観察してきた印象を述べた。食堂で立ち食いに近い恰好で夕食を摂っていると、ロジェフスキが入ってきた。

「昼はゆっくり休めた。今晩は貴官が休め。今晩の見回りや伝手は俺が受け持つ」

「お願いします。

 明日、ロシア皇帝たちはヴァリエテ座、その周辺のブールヴァールに遊びに行く話でしたからね」

「多分な、明後日の公式行事は夜のオペラ座と歓迎会だ。夜っぴて遊ぶかも知れない」

「大公たちはともかく、皇帝はあんな若い娘を側に侍らせているのにですか?」

 ロジェフスキは片方の口の端を上げた。

「形だけでも派手に動き回る可能性がある」

「それで誤魔化しているつもりになっているのでしょうかねえ?」

「皇帝自身はね」

 カーチャと呼ばれている女性の存在は、当人たちが秘密が守られていると信じこんでいるだけなのだと思う。ここに駐在している各国の大使に、アレクサンドル2世の若い愛人の存在は筒抜けであり、息子たちは父親の母親への背信行為に勘付いているだろう。

 恋の熱病は目を曇らせる。

 有難いことにそれは当事者以外に有利な情報になり、「カーチャ」がロシア側の交渉窓口の一つになるのを期待する。世間知らずお嬢様がたまたまロシア皇帝の目に留まったばかりに、既に国際政治の汚い面に巻き込まれている。自分と同じような田舎貴族とでも結婚していれば良かったのだ。

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