十
ロンシャン通りに折れ、北西に進んでいて、ロジェフスキが耳を澄ました。
「あちらで馬を掛けさせている音が?」
ロジェフスキの言う通りに、蹄の音が微かに響く。
「行ってみるか」
「そうしましょう」
蹄の音が近付く方へと、耳を頼りに行くと、女性が馬を走らせている姿が見えてきた。その方向に合わせて、俺たちも動いた。
遠目にも若い女性だと判る。ベールを被っているが、馬の速度の所為で、半ば飛ばされ、背になびかせている。
果たして、女性が馬を飛ばす先にはロシア皇帝(とそのお付きに駐在武官らしい男が一人)が騎馬で待機していた。
「カーチャ!」
皇帝が叫んだ。
女性はそのまま皇帝に向かっていく。二人は馬を寄せ、見詰め合った。馬上であるのも構わず、二人はしっかりと抱き合い、口付けを交わした。
俺は溜息を吐いたかも知れない。女性はご落胤の類いではない。皇帝のお付きはやや離れて、他所を向いている。
「成程、息子たちを連れてこなかった訳だ」
誰かが近付いてきたのが目の端に入った。
「プロイセンの大使館の人でしょう?」
下手くそなドイツ語だ。何かと視線を向けると、フランス人のご同業者らしい。ご同業者は苦笑いをしていた。みぞおちの辺りがぎゅっと捻じれるような気分になった。しかし、ロジェフスキは表情を変えなかった。下手くそなドイツ語が続いた。
「あの駐在武官――ストロゴフスキ伯爵と言うのだが――の結婚を考えている女性がいるから是非とも会って欲しいと、早朝に皇帝を連れ出すから、何事かと思ったら、これだよ。駐在武官が皇帝の想い人を連れてきただけじゃないか」
それがエリゼ宮で息子や側近へ使った言い訳そのものなのだろう。
ロジェフスキはフランス語で返した。
「わざわざ呼び寄せたのか、押しかけたのか知らんが、あれは皇帝が『カーチャ』と呼んでいる愛人だ」
フランスのご同業者は羨ましそうに皇帝と愛人を眺めた。そして気取らずフランス語で呟いた。
「息子の大公たちと年齢が変わらないくらいの若い娘だな」
「確か二十歳だ。エカテリーナ・ミハイロヴナ・ゴトルーコヴァ。通称カーチャ。馴れ初めやご寵愛の程度も聞きたいか?」
ご同業者は大仰に肩をすくめてみせた。好天に恵まれそうな朝っぱらから、野外で他人の色事を聞かせられても面白くもなんともないし、存外ロシア宮廷で認められた存在なのかも知れない。
「いや。
情報提供有難う。こちらも外国人が森に入りこんで目撃していたと報告せんといけないのでね」
「ああ、だが共有して平気な情報だろう」
「そうだ。だが、一応立場があるのは同じだよ。それでは気を付けて」
ご同業者は別の方向へ移動して観察することにしたようだ。
「一瞬隠し子なのかと思いましたが、愛人でしたか」
「ここでご落胤を発見したら大騒ぎになる。愛人の方がフランスも対応しやすいさ」
事も無げにロジェフスキは言った。
「もう少し様子を見たら、朝食にしよう。今日は午後からこの森で、フランスの皇帝招待の競馬がある。フリードリヒ王太子殿下もいらっしゃる。予定が詰まっている」
それもそうだ。ここでは覗き以外やることはなさそうだ。ナポレオン3世主催の競馬には先に来仏している王太子殿下、ロシア皇帝ご一家、ベルギー国王レオポルド2世をはじめお歴々が顔を揃える。
今日は住まいとブローニュの森の二往復。息子と年齢の変わらないような若い愛人と、連日連夜の公式行事、皇帝は体力がないと務まらない。
参考 『絶景、パリ万国博覧会』 鹿島茂 小学館文庫
喜歌劇『ジェロルスタン女大公』は、ネットの『モバイル音楽辞典』の中の『オペラ名曲事典』と「YouTube」を参考にしました。




