二
バイエルン国王のスタルンベルク湖畔の街、フェルダフィンクに来ている。そこで宿を取り、到着の翌日、遅い朝食で、流行りの味と聞いているヴァイスヴルストを供された。大きな白い器にお湯に浸けられたままのやや灰色がかった白いヴァイスヴルストが入っている。それを皿に取り出して、皮を剥いで中身だけを食べるという。ナイフで縦に切れ目を入れて、皿の上で転がすようにして皮を剥ぐ。一口くらいに切り、まずはマスタードを付けずに食べてみた。柔らかく、ハーブやレモンの風味があって美味かった。二口目にはマスタードを使って食べてみた。大分甘めの味に調えているマスタードだ。柔らかで淡白な味わいヴルストに合うような工夫なのだろうが、俺は辛味が強い方が好みだ。軽めのビールで喉を潤す。
遅い朝食、昼前の軽い食事として文句なしの食材だろう。
食事を終えて、散策することにした。
湖畔沿いにしばらく歩いて行こう。湖に浮かぶ小島は、「薔薇の島」と呼ばれているそうだが、王家の所有で勝手に入れない。ポッセンホーフェンへつながる北に向かう道に行ってみよう。なに、王族の宮殿のある場所まで行って見学しようというのではない。小一時間くらい、ぶらりとしていたい。
湖畔沿いには散策向けの道や並木がある。夏の日差しの中、木洩れ日を浴びながら、歩を進める。
思い切って、来てみて良かった。
暗い話題が多すぎる。
何にも煩わせず、心を空っぽにして、この夏の盛りの街を楽しみたい。
小鳥のさえずり、緑の香り、見知らぬ旅の者に愛想よく振る舞う人たち。旅人の俺とは関わりない陽光の世界。
大分歩いたのでもと来た道を引き返した。
湖水が中天のきらめきを反射し、眩しかった。逆方向から見れば、異なった径。ホテルの近くまで戻ると、湖に向けたホテルの広いテラスから、幼児が走り出てきた。女性――多分、母親――の静止を呼びかける声に何事か叫び返して、前も見ずに幼児はまた駆けだした。
俺の近くまで来て、男の子は転倒した。わあーっと泣き出すかと思ったが、ぐっと堪えるようにしている。側に寄り、俺は男の子を助け起こした。
「坊や、大丈夫か?」
男の子は不審そうに俺を見詰めた。俺の後ろの方で駆け寄ってくる足音がした。
「お手を煩わせて申し訳ございません」
振り返ると、俺よりも幾つか年長と見受けられる男性がいた。
「この子の父親です」
父親の手が、男の子を抱き上げた。男の子は安心したように父親に顔をすりつけ、ようやく泣き出した。
「よしよし、痛いのを我慢していたんだな、えらいぞ。でも、お母様の言うことを聞かないで、よそ見をして走っていたから転んだんだぞ。弱虫だと笑われるから、もう泣くな」
父親の胸に男の子は顔を埋めるようにしている。
「有難うございます。悪戯ざかりで目が離せないんです」
「元気なお子さんだ」
当たり障りのない、社交用の顔で答えた。
「あなた」
離れた場所、テラスから降りたところから先程の女性の声がした。若い父親は苦笑した。
「妻ですよ。貴方はご家族とこちらへ?」
「いえ、私は独りで来ています」
「そうですか。それは身軽で羨ましい。私は妻子と、妻の実家の人たちと来ているんですよ。女子供にお付き合いです」
羨ましいねぇ。優しいお父様と、お母様が一緒にいるのは羨ましいことじゃないのか、坊主。
二人並ぶようにして、ホテルのテラスに向かって歩いていった。
「あなた、ギルベルトは大丈夫?」
やっと母親の方が近付いてきた。
「坊主は大丈夫だよ」
父親は子どもを下ろした。男の子は涙もそのままに母親の裾に縋りつき、じっと俺を観察する。
「私はダーフィト・フォン・ホルバイン、妻のアレクサンドラと、長男のギルベルトです。
サンディ、こちらは息子の恩人だ」
ホルバインはにっこりと微笑んだ。
「よろしければ、お名前をお聞かせください」
構わないだろう。
「オスカー・フォン・アレティンと申します」
初めまして、とホルバイン夫人は固い表情をしたまま腰をかがめた。金髪の巻毛の坊主は母親の口調を真似して、初めましてとたどたどしく喋った。初対面の人間に緊張している母子と違い、ホルバインは気さくに話を続けた。
「アレティンどのはバイエルンの方で?」
「いえ、こちらには休暇で来ております。カレンブルクの出です」
「ほう、これは奇遇だ。我々もカレンブルクの者ですよ」
世間話に付き合わされるなら面倒だ。内心頭を抱えたくなったが、そこはこちらも驚いたという表情をしてみせた。