六
「倫敦での会議はプロイセン有利で決着しそうと聞いていますが、ルクセンブルグの件ではフランスと一戦交えるのかと身構えたくらいですから、ロシア皇帝のことを言えませんね」
「違いない」
俺とロジェフスキは歓談をしているふうを装いながら、ロシア皇帝一家のお召列車が到着するホームの方に目を移した。
「ルイ=ナポレオンはロマノフ家にエリゼ宮を貸すそうですよ」
「テュイルリー宮の近く、近くといっても広くて距離があるが、大層な歓迎だな」
「B宰相よりは歓迎するでしょう」
くくっとロジェフスキは笑った。皮肉っぽい物言いが好きな男のようだ。ロシアはドイツ嫌いと聞くから、大使をはじめ苦労があるのかも知れない。
しばらくの時間、ロジェフスキの話を聞きながらお召列車の到着を待った。
やがて警笛が鳴り響き、普通の旅客鉄道とは違う立派な客車が線路に滑るように入ってきた。
数々の婚姻と皇位継承を経て、グリフォンや獅子、白鳥が組み合わされた複雑な紋章。ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家。
停車した客車からまず警護の近衛が露払いに降りてきて、次いで威儀を正した人物たちが姿を現した。
すっくと長身痩躯の人物。
「あれがアレクサンドル2世」
四十九歳と聞くが、加齢を感じさせない、若々しい足取りだ。その後ろには息子たちか、二人の若者が続いた。長身だが筋肉質の若者と、すらりとした若者。
「がっしりしている方が皇太子のアレクサンドル、少し細いのが弟のウラジミール」
「皇帝は伴侶を同伴していないのですね?」
「皇后は最愛の長男が一昨年亡くなってから、寝込んでいる」
「ああ」
長男のニコライ皇太子が一昨年病となり、亡くなっていた。今の皇太子はその弟だ。先帝のニコライ1世の名を受け継ぎ、ニコライ2世になるはずだった青年は死に瀕して、デンマーク王女の婚約者に、次の皇太子になる弟と結婚してくれと頼み、王女も周囲も了解し、去年新皇太子と結婚したばかりだった。
期待を掛けていた息子の死に打ちのめされた母とは辛いものなのだろう。ドイツ諸邦の一国の大公女から大国の皇后の身となっていても慰めがないくらい。王様やお姫様は楽しいばかりで暮らせない。
皇帝は出迎えに来ている大使館の人間や巴里市長たちと和やかに挨拶を交わしている。一通りの儀礼が終わって、何やら要望を告げているようで、顔を見合わせ、どうしようかと言っているような様子の者たちがいる。
「早速巴里の名物にでも案内しろと言っているのかも知れないな」
「すぐ判るでしょう」
「歓迎の宴は今晩ではないから、まずエリゼ宮で休息して、それからか。エリゼに先回りしていようか」
「巴里の市庁舎の人間の話し声が聞こえる場所に行ってみるのを試して、それからエリゼに行きましょう」
周囲の様子を探りながら、巴里市の職員らしき人間を追い、耳を澄ました。
ロシア皇帝が巴里に到着早々見物したいとの要求はすぐに判明した。皇帝はヴァリエテ座で公演中の『ジェロルスタン女大公』を観劇したいので、席を確保しろと命じたのだ。気紛れで男に惚れっぽい女性君主が主人公の喜歌劇の評判と、エカテリーナ2世のパロディでないかとの危惧から、真っ先に観たいと頭にあったらしい。
ヴァリエテ座、コミック=オペラ座よりももう少し東に通りを進んだ、パサージュ・デ・パノラマの側の劇場だ。また、仕事で喜歌劇を観にいかなくてはならないのか、やれやれ。
ヨーロッパの王室が結婚や血縁を辿った王位継承で王家名称が変わったり、複合姓になったりはほかにもあります。有名なのが、マリア・テレジアの結婚によって次代から皇室の名称がハプスブルグ=ロートリンゲンになった例。イギリス王室が、エリザベス1世でヨーク家が絶えてスチュワート家になり、ハノーヴァー家になり、ヴィクトリア女王の後嗣エドワード7世の時に父親の家名のサクス=コバーク=ゴーダと変わりました。(第一次大戦中にウィンザーに家名を改称しています)
ロシアでは、独身で即位したロマノフ家のエリザヴェータ女帝が、姉の嫁ぎ先ホルシュタイン=ゴットルプ家から甥のピョートルを後嗣にしたので、ピョートルの代から家名が変わりました。ピョートルの妻がエカテリーナ2世です。詳しくはアンリ・トロワイヤか池田理代子の『女帝エカテリーナ』(中央公論社)か、ウィキペディアをご覧ください。
この時点で皇太子だったアレクサンドルは翌年男児に恵まれます。この男児がロシア最後の皇帝ニコライ2世になります。