五
夏の到来が近いと感じさせる日差しと、植物の瑞々しい香りを運んでくる風がやさしく吹き過ぎ、街歩きをするのに心地よい。マロニエの花が盛りを過ぎつつあるが、ラヴェンダーや薔薇が色彩と薫りを加え、街路樹の緑が眩しさを和らげる。葉を茂らせる木々や花壇、窓や玄関先を飾る季節の報せは、この大気の中にともにあって、呼吸するごとに生きる実感を与えてくれる。
歴史ある首都の整然とした佇まいと、様々な階層の人間の入り混じる喧騒が二つながらに存在している巴里。大通りや人通りの多い場所から小路や知らない角に入れば、別の世界になるような錯覚さえ覚える。俺にとっては物騒というより、汚いの一言なのだが。
巴里の東の駅、ストラスブール駅に赴くと、相変わらずの人混みだ。俺が初めてこの地に到着した時と違うのは、見物の為の客がいて、警察や軍の人間がそれを押さえるように警戒していることだ。
ロシア皇帝一家が巴里に来るとなれば、物見高い連中が殺到する。その一人のような顔をして、俺は通れる場所を探し、肩を右に左に滑らせるようにしながら、人垣を進み、駅舎にやっと辿り着いた。
皇帝一家のお召列車より早めに巴里に入っている参謀本部のロシア担当の軍人が来ているはずだ。
駅舎の中は、吹きさらしの場所を歩いているのに、外の風を感じられず、人々の話声が反響し、動きに伴う熱がこもっている。人々の移動する流れが渦巻いている。打ち合わせていた場所に近付き、時間を守れたと安心しながら、それらしい人物を探した。
かれかな? 背の高い、髭を蓄えた三十がらみの黒い上着の男性。かれの方から俺に近付いてきた。
「“ロシア皇帝の乗る列車は特別製で、揺れないような構造になっている”」
伝えられていた通りの言葉だ。
「“あやかりたいが、乗車料金はいくらかかるのだろう”」
相手はわずかに笑顔を見せた。
「ロシア部のアルフレート・ロジェフスキだ。滞仏中世話になる」
「フランス部のオスカー・フォン・アレティンです。こちらこそよろしく」
握手をしながら短く自己紹介をした。ロシアに駐在している者らしく、巴里の初夏が眩しいようだ。
「気候がいい場所だ。向こうはライラックがやっと咲いた」
「小官は田舎から巴里に出てきたばかりでして、こちらで夏がどうかは知らないのです」
貴官が着任したばかりなのは知っていると、ロジェフスキは言った。
「本格的な夏になる前に皇帝ご一家はお帰りになるよ。こっちは避暑をするつもりで、また戻るさ」
ロジェフスキはふと目を細めた。
「ロシア皇帝が何を考えているのか知らないが、いい気なものだ。クリミア戦争で南下を挫かれ、帝国内はごたごた続き。プロイセンと違って、国民の機嫌がいいとは言い難い」
「たまには国民の機嫌の悪さから目をそらしたいと願ったのでしょう。
小官はプロイセンの宰相閣下が何を考えているか、壮大過ぎて判りませんよ」
ロジェフスキは自嘲した。
「俺たちは所詮チェスの駒だ。ただ、ロシア皇帝は、我が宰相殿と同じく暗殺されかかった経験のある身だから、外国訪問時は無事に済んで欲しいだけだ」
「同感ですな。犯人が誰であれ、他国で難に遭って欲しくはありません」
他国でこそ難があればいいと願う輩がいるから、フランス警察や軍が警備に掛かるし、こうやってロシア人でもないのに、我々はロシア皇帝一家を観察しに来ている。さて、ロシア皇帝アレクサンドル2世はどのような人物であろうか。じきにお顔を拝見できる。




