一
シュレーダーは士官学校に戻ってこなかった。手紙が一度だけ来た。姉の看病を受けている。父が一家を支えるために懸命に働いているが、弟も、工場に働きに出た。十五になるやならずで、家を離れて、工場の寮に入り、給料の一部を送ってきてくれる、申し訳ない、早く良くなり、皆に会いたい。そんな内容だった。
こちらからどんな日常を過しているか、どんなことを学んでいるか、便りを送ったが、返事はなかった。
病状が好転していないのだ、と察せられて辛かった。
士官学校を卒業し、少尉の位を授けられ、卒業生はそれぞれ国の部隊に配属されていく。辞令によって、班の仲間もバラバラに別れる。ピーターゼンは西方の師団に、シュルツは本部に、俺は南部の軍団に配置となった。
その年の十月、我が国の東側に位置するプロイセンの国王が不例のため、王弟が摂政になったと報が入った。元々優柔不断、臆病と評判の人物だった。病を理由として、宮廷の奥に押し込められたのだろう、と推測が流れた。
プロイセン王国の摂政は六十歳を超えているが、我が国、カレンブルクの王はまだ四十を前にした壮年だ。保守的であると言われているが、これからの世の動きに充分対応できる柔軟さや豪胆さをお持ちであると願う。
オーストリア帝国は外交で失策を重ねている。
ドイツを統一しよう、と大ドイツ主義を目標に掲げた組織活動がインテリやブルジョワの中で唱えられていると諜報の者からの伝聞がある。
神ならぬ身には、先は見えない。ただ我が国の栄えある未来を信じて、職務に励むしかない。
南部の軍団に配属されて二年が過ぎ、夏に俺は休暇を取った。
オーストリア帝国はイタリアの統一戦争に干渉したが、サルデーニャに敗北し、かつての威信が更に低下していた。そして、プロイセンでは、ついに国王が亡くなり、摂政だった王弟が即位した。プロイセンでは軍隊の増強を図っていると伝わってきている。
かつての大国の力の均衡が崩れつつあり、緊張が高まっている。
だが、俺一人でどうなるものでもない。悩んでいてもはじまらぬ。休暇で憂さを晴らそうと、南ドイツのバイエルン王国に足を伸ばすことを考えた。
北のモナコと呼ばれるミュンヘンを歩き、この頃流行りはじめたというヴァイスヴルストを白ビールで食べよう。そしてスタルンベルク湖にも行こう。




