四
大使についていって、決められた場所の席に着く。大使が年間貸し切っているボックス席。久々に劇場に来て、軽い高揚感がある。
「思わず乗り出して、舞台や客席がどんな作りになっているか眺めてみたくなります」
素直に口に出すと、大使は苦笑いをした。
「気持ちは判るが、我慢してくれ。ここはプロイセン大使の席だと知られているから、外交筋の者が観察している可能性がある。おまけに卿は新顔だ」
微妙に呼び方を変えている。開演前だから、よその客が挨拶に回ってくるかも知れないと、既に大使は注意している。
「了解しております。自重ですね」
席に着く前に、大使に挨拶してきた者たちがいた。俺は万博を見物に来た、知り合いの貴族の息子の設定で、紹介を受けても、フランス語が堪能でないように振る舞って、たどたどしく挨拶を返していた。多くを打ち合わせしていていないが、今後の行動を考えればそうしてこの場を過すのがいい。
大使が巴里で親しくしているプロイセンの貴族が来て、ここはどうするかと思ったが、ゴルツ大使は変わらぬ設定を通すので、こちらは田舎領主の息子っぽく、華やかな席には不慣れなようにしていた。(実際、俺はユンカー出身出ないだけで、巴里の社交場に慣れていないのだから演技の必要が無い)
「今晩は素のままで済みそうだな、アレティン君」
「はい、その通りですね」
幕が開き、喜歌劇が始まった。
ギリシア神話を下敷きにした話らしいが、現代的に戯画化されて、下敷きになったエピソードは悲劇的なはずなのだが、舞台は明るく展開している。愛し合っている夫婦の仲が裂かれて、のはずが、お互い愛人がいるから裂かれても悲しくもなんともなくて、世間体を気にしている流れになっている。
戯画化されて、笑われているのはこの舞台を観に来ている大多数の貴族や富裕層なのだと思うのだが、観ている方は気にもせず、芝居の軽快さを楽しんでいるようだ。
やや複雑な気分になりつつ、一幕目が終わり、幕間に大使とともにロビーへ出た。
「喜劇ならモリエールを上演している劇場はあるのでしょうか? 自分の好みとしては古典劇のラシーヌを本場で観てみたいと思います」
「さあ、どうだろう。オペラ座で次のシーズンに上演する予定があるかな」
ゴルツ大使は芝居の内容に拘泥していない。それよりも顔見知りのチェックに忙しそうだ。外交官はにこやかさやさりげなさを装わなければならない。護衛の武官なら怖い顔のままで済ませられるのに、気苦労の多いものだ。
「これはこれは、今晩は」
ゴルツ大使にフランス語で挨拶してきた者がいる。しかし、フランス人ではなかった。
「今晩は、レヴァンドフスキ伯爵。今晩はご家族とご一緒ですか」
「ええ、不肖の息子と娘です。大使のお連れの方は?」
「父上、その方と私と妹は伯林でお会いしておりますよ。確か参謀本部の軍人さん」
兄貴の方が、父親に教えた。
ほう、と伯爵は俺を見た。
大使は表情筋を少しも崩さず俺を伯爵に紹介した。
「ええ、参謀本部から出向してきておりますオスカー・フォン・アレティン大尉です。巴里は初めてですので、軍服ではない装いで、連れてきました。なかなか見所のある、品の良い青年ですよ」
「大使のお墨付きでは有望のようですな。
ピォトル・レヴァンドフスキ伯爵だ」
伯爵は右手を差し出した。
「オスカー・フォン・アレティンです」
二男のことで俺の名前に聞き覚えがないのかと、一瞬迷ったが、ここでそんなことを言っても仕方がないと、握手した。
伯爵とはそれ以上の会話はなく、伯爵は大使と話し始めた。




