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君影草  作者: 惠美子
第十六章 コミック・オペラ
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「兄には言わないでください」

「一人でここに来たのではないのですね?」

 レヴァンドフスカ嬢は小さく肯いた。

「ここに来てみたいとねだったら連れてきてくれたのですが、兄は別の場所を見てくるから、わたしに一人で見ていなさいとさっさと行ってしまいました。侍女は近くにいると思いますが、はぐれたか、別の売り場を見ていると思います」

 仲が良い兄妹ではないらしい。女性の見物に付き合うのが退屈なのは判るが、人混みに置いて行くとは、保護者としては無責任だろう。彼の女はもしかしたら侍女から嫌われているのかも知れないと、夜会での口の利き方を思い出して、同情してしまう。勿論侍女にだ。

 肉食動物に遭遇した小動物のように縮こまられては、対処に困る。相手は伯爵令嬢だ。それに隣の客の相手をしていた店員が、何事かと気付いてこちらに貼り付いてきた。

「お決まりになりましたか。それとも別の品を?」

 あの、その、とレヴァンドフスカ嬢はドイツ語しか出てこない。頭の中が絡まった糸のようになっているに違いない。俺はフランス語に切り替えた。

「マドモワゼルはこの手袋が気に入ったようだが、値段はいかほど?」

「三十五フランです、ムシュウ」

 成程、ボン・マルシェ(お手頃価格)だ。俺はドイツ語で彼の女に話し掛けた。

「ここは小官が払います。小官は何も見ていなかった、貴女はただ手袋を見ていて、これが欲しいと決めた、それでいいでしょう」

 小娘があれこれと言い返す前に俺は店員に頼んだ。

「これに決めます。私が払いますので、持ち帰られるようにしてください」

「はい、仰せつかりました。お包みしますので、一旦お預かりします」

 レヴァンドフスカ嬢は上目遣いで、脱力したように俺を見ていた。

「どうしてですの?」

「貴女が手袋を欲しがっていたが、買えない。だから小官が貴女へ贈る、それではいけませんか?」

 この小娘の自尊心には、格下の人間から万引き未遂を目撃され、それを咎められず施しを受ける方が罰になるだろうと踏んだ。侍女に言伝て、兄に手袋を欲しがっていると教えてやったって、貴族の気紛れと贅沢で済んでしまう。

 レヴァンドフスカ嬢の顔は見る間に赤くなった。それは初々しさとは一切縁のない表情だ。早速俺の意図に沿った心情の変化を見せてくれている。

「お嬢様、離れてしまって申し訳ございません」

 やっと侍女のお出ましだろうか。俺と同じくらいの年齢の女性だ。日頃からお嬢様の気の強さに我慢しているだから、婦人向けの小物売り場を見物して気晴らしてきたかったのだと、売り場への心残りか視線が定まらない様子が感じられた。見知らぬ男性――俺のことだが――が、お嬢様の側にいるのは何故なのか、自分の手落ちになるのかと焦っている。

「フロイライン・レヴァンドフスカがお独りでいらっしゃったので、声をお掛けしたのです。心配なさらずに、巴里の大使館に勤めている者です。フロイラインとは伯林でお会いしたことがあるのです」

「そ、そうです。亡き兄と同じ軍人さん」

 小娘、名前を記憶しているかあやしいな。

「アレティン大尉です」

 はあ、と侍女は驚いていた。

 そこへ先刻の店員が包んだ品を持ってきてくれて、レヴァンドフスカ嬢に渡し、俺は支払いを済ませた。その間、侍女は口を開けたまま。

「お買い物が済んだのなら、兄上をお探しになったら?」

「多分、待合用の読書室にいると思います」

「では、侍女が来ているのですから、小官はこれで失礼しますよ」

 レヴァンドフスカ嬢はもの言いたげにしていたが、何も言えなかった。ただ、別れの挨拶だけを丁寧にしてくれた。

 こちらも慇懃に挨拶を返した。

 産業の発達で、小綺麗な品が安価に大量に提供できるとなると、財布の紐は緩みっぱなし、そしてつい代価を支払わずにかすめ取ってしまいたくなる。食べるに事欠く層ではないのに、強欲の罪に囚われてしまうとは、文明の発達を喜びだけで見られなくなる。

 投資で成功して裕福と言われているレヴァンドフスキ伯爵家なのだから、娘に金の使いようを少しは教えてやればいい。女性を家庭の天使であれと道徳を教え込もうとしたって、人間であるのは違いないのだから、男性と同じように、良いことも悪いこともする。堕天使にならない知恵を知るべきだ。

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