一
コンコルド広場からコンコルド橋を渡ってセーヌ川を越えれば、サン・ジェルマン大通りだから、後は通りに沿って行けばいいし、馬車もあると、ハウスマン少佐は気軽に教えてくれた。サン・ジェルマン大通りから右に曲がってバック通りへ入り、南に進み、セーヴル通りまで来れば大丈夫、目立つ白い建物がボン・マルシェ。そこまで来ればメダイユの礼拝堂もすぐに判る。
地図の上でもボン・マルシェはバック通りとセーヴル通りの角だから迷子になりはしないだろう。馬車を使ってもよいのだが、実際に徒歩で掛かる時間を測りたいし、街路や橋のつくり、セーヌ川の川幅や流れを目にして記録していきたい。これはエトワール広場からコンコルド広場、イタリアン大通りまで試してみたのと同じだ。
昨日コンコルド広場まで同じように歩き、昨日と要した時間にさしたる誤差がないと確認して、橋を渡った。
巴里の紋章に使われているセーヌ川。川幅は充分あるし、水量も多い。橋がなければ渡れない。橋を破壊したらカナヅチは対岸を眺めるだけになる。ランゲンザルツァでのウンストルト河のように歩いて渡れない。まあ、橋もそう簡単に壊せる代物でもない。巴里はお得意のバリケードを築く手がある。もしそうなったら、橋が破壊されるのを承知で砲撃するかどうかだな。橋は一本だけではないから、どこを狙うかになるだろう。
通りの分かれる場所を間違えずに南に行くと、白い建物が見えてきた。あれが百貨店のボン・マルシェ。女性客ばかりでないことを祈りつつ、入店した。
「いらっしゃいませ」
と声が掛かるが、小売りの店のように、店員が手ぶらでは帰さないと言わんばかりに睨むように貼り付いたりしない。売り場がどうなっているのか訊きながら、店内を見回した。
一つの劇場のロビーのように拡がりを見せながら、俳優たちが微笑んでいるように商品が並べられている。客の方から近寄って、眺め、気に入ればどうぞ手に取ってみてくださいと、勧められるようになっている。
紳士ものの売り場はこちらあちらと説明されたが、ご婦人物や布地、生活雑貨が主力商品のようだ。
ゆっくりと店内を見物していると、どこかで会ったような女性がいた。誰だったか、あの気の強そうな顔をした小娘。
ああ、伯林の夜会で俺に食って掛かってきたレヴァンドフスキ少佐の妹か。
一人で婦人物の小物の売り場で客用の椅子に座らせられて、店員が広げている商品を見ているが、落ち着かない様子をしている。そわそわと周りを気にしている風情だ。側に父親か兄らしき男性や侍女がいないようだ。迷子にでもなったのか。だとしたら知らぬ振りで通り過ぎられないな。鼻っ柱が強くて気に食わないが、所詮は世間知らずのお嬢様だ。迷子になっていたとしたら、そのうち泣き出すかも知れない。
俺はレヴァンドフスカ嬢に近付いていったが、彼の女はまだ俺に気付いていない。しかし、周りや手元を見回して、並べられている手袋を掴み、そっと膝の上に手を戻そうとした。
「フロイライン」
俺はドイツ語で話し掛けた。
レヴァンドフスカ嬢は椅子に掛けたまま飛び上がりそうになった。真ん丸に目を見開いて、石になったかのように固まった。俺はメドゥーサか。
「商品をお選びになったのなら、そのように強く握りしめてはしわになります。店員にお申し付けなさい」
レヴァンドフスカ嬢は魔法が解けたように手を広げて、手袋を元の場所に戻した。小鳥のように怯えきった様子で、いつぞやの夜会での勢いはなかった。
「買えません。戻してもらいます」
伯爵令嬢がなんという真似を。だが、これだけの品を目の前に並べられては欲しいと歯止めが利かなくなる人間も出てくるだろう。何といっても財産を持っているのは父親の伯爵であり、それを継ぐのは兄のマタイだか、マテウシュで、彼の女は自分で自由にできる金銭を普段から与えられていない可能性がある。貴婦人は自分で財布など持たない。そして、ここでの買い物の許可をもらっていないかも知れない。
「お父上や兄上はご一緒ではないのですか?」
レヴァンドフスカ嬢はびくっと肩をすくめた。
参考
『デパートを発明した夫婦』 鹿島茂 講談社現代新書




