七
木枯らしが吹くようになり、シュレーダーの咳がまた頻繁になってきた。心配があるが、本人が大丈夫だと明るく振る舞おうとするので、こちらもそれに合わせ、無理をさせないように気遣ってきた。
「次は写生だろう」
「地勢図を描く練習だと言われてもなぁ。画家みたいにモデルがいる訳でなし、詰まらん」
「遅れるから先に行くぞ」
カルトンと鉛筆を抱えて、シュルツとピーターゼンが先に部屋を出た。俺も続いて出ようとシュレーダーを振り返った。大丈夫のようだ。
廊下に出ると、シュレーダーもついてきた。
振り返らずに歩きはじめると、どさりと床に響く音がした。
シュレーダーがカルトンを落とし、床にうずくまるようにしていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ。足元を見ていなかった」
しかし、そのまま咳込み続けた。
「おい」
側に寄り膝を着いた。シュレーダーは構うなというように腕を伸ばすが、咳のために手を口元に戻した。いつもより咳がひどい。思わず背中を強くさすった。ぐっとシュレーダーが苦しげに咳とともに吐き出したのは鮮血だった。
俺は目を疑った。だが、目の前にあるのは紛れもない事実だ。ハンカチを出して、シュレーダーの手に渡そうとするが、彼は拒む。
「君のハンカチを汚して駄目にしてしまう」
「そんなこと言っている場合じゃない」
俺はシュレーダーの口元を拭い、手を拭くように渡した。
「医務室に行こう。立てないようならシュルツたちを呼んでくる」
「いや、少しここでじっとしていたい。少し休んだら一人で行くよ」
俺は首を振った。シュレーダーのことだ。我慢して、医務室に行かないかも知れない。
「お前が落ち着くまで一緒にいる。そして医務室に行こう」
「ああ、有難う」
咳が止まり、シュレーダーは深呼吸を繰り返した。
「家に帰されるかも知れない」
「喋るな、喋るなら医務室に行こう」
シュレーダーは俺の腕を強く掴んだ。手が熱い。
「待って、まだ」
薄紫に見える瞳が熱を帯びて潤んでいた。
「アレティンに悪いけど、シュルツと同じように俺も君のこと女の子みたいな顔をしていると思っていたよ。時々家にいる姉を思い出した。
母さんが死んで、ヒルダ姉さんがずっと家事を一人でこなしてきた。父さんは働くのに一生懸命で、家のことはヒルダに頼りっぱなしだ。弟や妹もいるし、少しでも家族を楽にさせたい、お金をかけさせまいと軍人になろうとして頑張ってきたのに、こんなことで家族に迷惑を掛けるなんて嫌なんだ」
シュレーダーは肩で息をする。
「アレティンが外を眺める様子が、ヒルダが空を見上げる姿と似ているような気がして、見詰める時があった。気味が悪いと感じていたら、ごめんよ」
俺は目を瞬いた。突然の話に驚きはしたが、今まで気付かなかった。
「知らなかった。それに気味が悪いなんて思わない」
「有難う」
シュレーダーは安心したように微笑んだ。
「落ち着いたなら、さあ、行こう」
「ああ」
カルトンをそのままにして、二人、立ち上がり、シュレーダーを抱えるように歩き出した。
「アルベルト」
「ああ」
「お前の姉さんは髪が黒いのか?」
「真っ黒っていうより、濃い茶色。アレティンと似たようなものだろう」
「ああ、そうだな」
かなり違うと言いたかったが、そこは黙っていた。シュレーダーがまだ十二、三歳の時に離れて暮らすようになった姉への気持ちは、母への慕情と変わらないのだろう。自分が同学からイコン扱いされていたとは知らなかったが、今は不愉快だとか感じている余裕はなかった。共に学び、共に生活してきた仲間だ。病に負けて欲しくない。
だが、軍医が告げた言葉は残酷だった。アルベルト・シュレーダーは肺結核の診断で、集団生活の禁止と、自宅での静養を命じられた。
仲間と過す喜びを得たと思うと何故、突然去ってしまうのだ。
人生はそんなものなのか。
いや、軍人をしていれば、いつ自身の命を失うか判らないのだ。明日は自分かも知れない。
退寮の日、ピーターゼンは泣いた。俺やシュルツは涙を堪えていたが、辛かった。迎えに来たシュレーダーの父と姉が、言葉少なに挨拶していった。父親はシュレーダーと同じ金褐色の髪に灰色の目をしたがっちりとした体格の男性だった。姉は、濃い茶色の髪に青灰色の瞳で、気が強そうだった。気落ちしている父と弟を支えようと声を掛けていた。
俺は腹の底から叫んだ。
「アルベルト! きっとまた戻って来いよ!」
シュレーダーは力なく肯いた。
いつの間にか、頬が濡れていた。
鳴きよわる まがきの虫も とめがたき 秋の別れや かなしかるらむ
紫式部




