六
六十半ばに達しているが、すらりとした長身の姿勢は崩れていない。若い頃はひょろりとしていて、軍人として頼りないと言われていたそうだか、今は哲学者のような威厳がある。白髪交じりの金髪は気品を感じさせ、静かな眼差しと高い鼻梁が強い印象を与える。
「こちらが、カレンブルクからフランス部に出向してきましたオスカー・フォン・アレティン中尉です」
「オスカー・フォン・アレティン中尉です。どうかお見知りおきを」
我々の敬礼に総参謀長は敬礼を返した。
「ヘルムート・カール・フォン・モルトケ大将だ」
総参謀長は傍らにいる婦人を顧みた。
「妻のマリーだ」
四十前後と聞いたが、三十半ばでもとおりそうな重い髪の色の女性がにっこりと微笑んだ。切れ長の目が聡明さを示しているようだ。
「夫ともどもよろしくお願いします」
挨拶を終えると、どうぞ席にお着きになってとモルトケ夫人が促した。夫人自らお茶を淹れてくれた。流石にイギリス出身だけあって、ハーゼルブルグ子爵夫人の淹れる紅茶よりも旨い。
小鳩がく、くと喉を鳴らすように、朗らかに夫人は笑う。心底夫を頼り、愛しているのだと、こちらが恥ずかしくなりそうなくらい、様子が見えてくる。年齢の離れた妻が夫の側にいたがるのを、総参謀長は当然のように慈しんでいると、言葉少ないながらも伝わってくる。
「アレティン中尉はカレンブルクから来て、不安はあるか?」
「まだこちらに来たばかりで、慣れるのに懸命になっています」
「私も元はデンマーク軍にいた。それがプロイセン軍でこうして認められ、働いている。貴官も希望を持って勤めることだ」
「はい、そのお言葉を肝に銘じます」
夫人は会話を聞いていて、俺を見た。
「まだ緊張なさっているようですね」
「いえ」
「ラシーヌの『フェードル』のイポリートの台詞を朗々と吟じられたのは本当ですの?」
俺の代わりに少佐が答えた。
「ええ、それはもう巧みに」
「まあ! それは聞いてみたいわ」
俺はぎょっとした。それはない。そもそも巧みに喋ってないし、ご婦人の前で朗読してみるなぞしたことがない。
総参謀長は穏やかに夫人に言った。
「中尉が困っているようだ」
「緊張が和らぐかと思ったのですけど、また固くなられてしまったかしら。
でも、悲劇の貴公子の台詞を言うのにはぴったりのハンサムな方だと思いましたわ」
「若い者をからかったら気の毒だ」
夫人は夫に肯いた。
「そうですわね。無理を言ってごめんなさい。許してくださいね」
「いえ、こちらこそ気が利いたことができないので、申し訳ないです」
少佐が苦笑いしているのが判る。
モルトケの人柄や考え方にもっと接することができるかと思っていたが、夫婦の仲の良さを見せつけられて終わったような気がする。
執務室に戻りつつ、少佐が言った。
「年齢が離れているから奥方に甘いだけでなく、ご夫妻にはお子さんがいらっしゃらない。その分、奥様は総参謀長殿から可愛いと思われているようだし、娘気分な所もあるのだろう。それにその程度でまごついていたら、巴里でやっていけないぞ」
「上官のご夫人や令嬢に失礼な真似はできませんよ」
少佐は破顔する。
「それもそうだ」
巴里での諜報が楽しい仕事というなら、喜んで代わってもらうのだが。
モルトケ夫妻の肖像は、当サイトの小田中慎さんの『プロシア参謀本部~モルトケの功罪』でご覧になれます。二話目の「モルトケ登場」と、百話目の「普仏戦争 ドイツ/プロシアの軍部(前)』に掲載されています。
モルトケの夫人は、モルトケの妹の結婚相手の連れ子でした。継母の兄が筆まめで、少女がその手紙を読んですっかり夢中になった、が、結婚のきっかけとなりました。
手紙が恋の行方の決め手となったので、『シラノ・ド・ベルジュラック』の台詞を、と思ったら、戯曲の発表がこの時代よりも後でしたので、ラシーヌの『フェードル』を持ってきました。元ネタのギリシア神話では、イポリート(ヒッポリトス)は女嫌いのキャラクターです。




