四
「惚気じゃない」
「惚気だ。それ以上の細君の自慢は別の機会にしてくれ。こちらは独り身の上、故郷を離れてきているのだから、聞いていて耳が痒くなりそうだ」
耳たぶを人差し指で軽く弾いた。シューマッハは生真面目に、俺の肩を慰めるかのように叩いた。
「今まで出会いがなかっただけだ。伯林にも巴里にも、気持ちの優しくて、清らかな女性はいるよ」
心底から言ってくれているのは嬉しいが、自分自身にも女性にも期待していない。アグラーヤ・フォン・ハーゼルブルグは良き仲間だと思うが、子を生した仲と知っても伴侶にしようとは義務感以上の感情が湧かなかった。多分、俺が女性に対して厳しい目を向けているのだ。伯母やアグラーヤを敬しているのに、母のように弱くてあてにならないと、心の奥底に刻みつけられている。消えない、琥珀の傷。
――アグラーヤ。俺のような冷血な人間とは不釣り合いな女性だ。
「容姿が清らかでも、性格まで清らかだと信じられるような女性に会えるかどうかは、それこそ神のお気持ち次第。貴官のような幸運が俺にも恵まれるとは限らない」
「賭けや派手な刺激だけが人生じゃない。まあ、今のところは何か芸術鑑賞のような趣味でも見付けるべきだな」
腕がよくないから職人の実家を出て、食うために軍人になったと言うが、実戦で多くの血と死を見てきた中で、清廉な心を保つ正義漢。真直ぐな瞳を持ち続けている。得難い知己だ。
「ああ」
伯林に来ての、初めての盃は香りが清々しく、心地よい酔いをもたらした。
参謀本部の第三局フランス部で、巴里に赴任するのだから当然フランス語の出来を試される。家庭教師や士官学校で習い覚えた程度でどれくらい通用するか、まずは会話から喋ってみろと、挨拶の言葉から言わされた。
一通りの、朝晩の挨拶や、物の尋ね方、答え方などをしてみせたら、今度は何かフランス語で知っている詩か何か、演説でもいいから長い言葉を話せるかときた。さて、ラシーヌでもやればいいのか。
『フェードル』の覚えている箇所を整理して、それらしく台詞を言っていたら、少佐が手を叩いた。
「そこまででいい。発音だけでなく、文法も頭にきちんと入っているようだし、芝居っ気の度胸もありそうだ。
あとは社交界や軍で使うような単語や言い回しを覚えれば済みそうだ」
「有難うございます」
「そういえば貴官は社交の場に出たことはあるか? 警備で宮廷に配置された経験は?」
「ありません。南部の軍団で、前線にいましたから」
首都勤務があれば、近衛兵でなくても王侯の警備に駆り出されたかも知れないが、地方の軍団にいたのだから、優雅な社交の場は知らない。伯母の所で他人に会う機会も葬式の時くらいしかなかった。
「伯林で出席できそうな宴会があればそこに行けるようにしてみよう。花の都は巴里だけではない。ここだって充分に華やかだ。多少は女性へのエチケットを身に着けていかないと、大使がお困りになるからな」
出入り口に注意して壁際に立っている警備ならすぐにできるが、それだけでは仕事にならないようだ。やれやれ。
「軍礼服だけでなく、通常の礼服も複数誂える必要がある」
「はい」
「素材がいいのだから、愛想よく」
「努力します」
フランス語のおさらいと、送られてきている巴里の情報をまとめている作業の中、どこぞの伯爵の催す宴会に参謀本部の士官が招待されている、俺も行くようにと声が掛けられた。




