十一
知るものか。ここは空とぼけておく。
俺は表情を変えぬよう、ゆっくりと中将に答えた。
「ルクセンブルクの問題は倫敦で会議が始まろうとしていますし、フランスでは皇帝が言い出した軍備の強化は議会で否決されたと聞いています。フランス大使館に参謀本部付きの武官が行く必要性があるのですか?
非才の小官には判りかねます」
返事を聞いた中将は堪えきれぬとばかり、笑い出した。いい年齢をした男が子どものように笑って涙までにじませた。しばらく豪快に笑い続け、やっと発作が治まったといった体で、姿勢をただした。
「芝居はまあまあだ。だが、愚か者の振りをするなら、普段から隙を見せておくべきだ。頭の回転が良さそうな顔つきで人を見ていながら、才がないなど謙虚を超えて嫌味だ」
悪戯の計画がばれた生徒のように、神妙になる。無害な兎にはどうやっても見えないか。かつてシュミットが俺の態度を気取っていて気に食わないと言っていたが、ポドビエルスキ中将からも似たような指摘を受けてしまった。しかし、人間の性質は直せるようなものではないだろう。
「仕事で隙を見せるのはできません。自分は今まで銃弾飛び交う戦場に立っていたのです。駐在武官になり、諜報を行うのに自分が向くとは思えません。
それに何故カレンブルク出身の小官にそんな重責を命じようとするのですか? プロイセン王国への忠誠心にご疑念はないのですか? 小官には測量や地誌の整頓をお命じください」
ポドビエルスキ中将はじっと俺の主張に耳を傾けていた。叶えられるかどうかはともかく主張は届けていいだろう。
「言いたいことを言い尽くしたか?」
「はい」
「貴官が自身をどう考えていようが、人事権を持つ側が貴官にこの仕事を任せたいと決定したのだから、不満を述べるよりまずは期待に応えようと努力をしてみるべきではないのかな?」
軍は上意下達の集団、俺には拒否権がない。それでも柔らかく諭しくれているのだから、併合された国の人間に気遣いを見せてくれているとしおらしくしていた方がいいのだろう。不味い食事でも平らげなければ生きていけない。
「仰言る通りです……」
中将はずっとにこやかさを崩さない。癪だが役者が一枚上だ。
「実に聞き分けがいい。
駐在武官と言っても、ゴルツ大使に貼り付いている必要はない。貴官は巴里の細かい地理や庶民の暮らしぶりや心情を記録してくればいいのだ。
測量機械を使わぬ測量だと思ってくれていい」
「はい」
「外交官は外交官、軍人は軍人で重要と捉える情報は少しずつ違っている。こちらはもしフランスと一戦交えて巴里に行くとしたら軍はどう街を包囲するか、もしくは攻め入るか、そして占領するとしたらどこを押さえて守備すべきかと推量しておきたい。
判らないとは言わないだろう?」
「はい、判ります」
「その点で、貴官は若い。学生や旅行者の振りをしてあちこち回ってスケッチしていても不審がられないだろう。また街中を調査するのに女性から警戒される心配も無さそうだ。多少羽目を外しても大目に見るから安心したまえ」
「はあ、有難うございます」
フランス語ができるかとのほかに、女性受けについて尋ねられたのはその所為か。どこまで仕事と認めてくれるか、その線が面倒なような気がする。
母親に似ている容貌がこんなところで評価されるとは皮肉なものだ。
「フランスとことを構えるとなればカレンブルクだとて無関係ではない。ともにフランスに与しないと考えているのならば、忠誠心に疑問は抱かない。それとも貴官にはフランスに恩でもあるのかね?」
調査済かも知れないが、申告はしておく。
「商売での利益の関係はあるでしょうが、それは小官ではなく亡父の遺産の商会の問題です。自分が深く受けた恩も借りもありません。しかし会ったことはありませんが、義理の伯母がいます。伯父の未亡人です」
「リンデンバウム家の総領息子だった仁か。しかし、その女性は王侯貴族でも、ブルジョワでもないだろう?」
「確か服飾店を営んでいると聞いています」
「その程度の縁なら誰でも多少あっておかしくないのだから、フランスに行ったからといって利敵行為を行う心配はない」
確かに。王侯貴族の縁戚関係を調べ始めたら、どこで血縁が繋がっているのか判らないくらいだ。それでも自身の権門と財産を守る為、自国の利益を優先させてきているのだ。顔も知らない伯父の未亡人の為にゲルマニアを裏切らない。
ただ、この任務に納得して身を入れて働けるか、俺は不味い食事をまだ飲み下せないままでいる。