十
表向きは何もなかったように振る舞っていく、古い帽子のやり方が長く続いている理由の一端を垣間見、俺は何も言わず何も気付かなかったように茶会に戻り、時間を過した。ハーゼルブルグ子爵夫妻、ホルバイン子爵夫妻も何事もなかったようにしている。
子爵邸を辞する際、ギルベルトとアガーテが挨拶に顔を見せた。アガーテはアレクサンドラよりもアグラーヤに似ているし、髪は黒い。側に抱き寄せてみたかったが、知らない人に怯えるような幼い子爵令嬢に失礼になる。
「ご機嫌よう、アレティン中尉」
「ご機嫌よろしう、皆様、ご壮健でお過しください」
ローデンブルク伯爵への紹介状を手に、家族の見送りでも受けているような気分で屋敷を出た。またいつ会えるか判らないが、この人たちにさいわいあれ。プロイセンから爵位と領地の安堵を受けているなら、それが今しばらく続くように祈る。錆びついた家柄が役に立たなくなろうとしていても、まだこの世の中に泳ぎ、渡っていかなくてはならない人たちだ。アグラーヤが先に立って範を示しているのだから、上手く渡っていって欲しい。
さようなら、我が娘、我が友、また会う日まで。
俺は昴と大切な人々と別れ、伯林へ発った。
伯林、ホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯となった頃からの都。
中央駅から降り、南のティーアガルテンを目指してシュプレー川を渡る。東側には王宮がある。新しいあるじであり、北ドイツ連盟の牛耳を執るプロイセン王国の都。急速に人口が増えてきているそうだ。俺が今歩いている場所からは判らないが、工場労働者の雑居する地区もあるのだろう。橋を渡り、進むと四頭立ての馬車に乗る勝利の女神の像が視界に入ってきた。勝利の女神ヴィクトリア像を戴くブランデンブルク門に違いない。ブランデンブルク門の手前、国会議事堂や公園にまで入らない。俺の目の前に赤煉瓦の新築間もない建物――参謀本部がある。
これからどのような勤めが待っているのか、緊張しながら、しかし、それを気取られぬよう平静を装って 扉をくぐった。
「カレンブルクより出向してきましたオスカー・フォン・アレティン中尉です」
取り次ぎの者に用件を告げると、奥の部屋へと案内された。
そこには、髭とそれに負けぬ印象を与える目の男がいた。兵站の視察に南部軍団に来て、リース大佐に引き合わされた人物。その御仁は気さくに語り掛けた。
「ようこそこの『赤小屋』へ」
俺はもう一度取り次ぎに名乗ったように、いやもう少し慇懃に敬礼して挨拶をした。
「以前にも会っているが、こちらももう一度名乗ろう。私は兵站総監でここ参謀本部次長テオフィル・フォン・ポドビエルスキ中将だ」
「はい、覚えております、閣下。こちらの方こそご記憶いただき有難く思います」
ポドビエルスキ中将はあの時のように頭から爪先まで俺を観察した。不快ではない。注文した品が見込み通りかどうかの確認の視線だ。
「忘れはしないよ。リース大佐は貴官を印象付けようと懸命だったからな」
「そうだったのですか……」
「口利きだからではない。ヴェーデル大佐からの人物評価や調査内容を受けての異動だ。期待しているのだ」
「小官は測量の仕事をするのでしょうか?」
「いいや、貴官は第三局のフランス部に配属される。フランスの首都、巴里でゴルツ大使の許で駐在武官として働いてもらう。勿論ただ大使の護衛をするのではない」
説明している意味は判るだろうと、言わんばかりに中将はニヤリとした。
参考 『中欧怪奇紀行』 田中芳樹 赤城毅 中央公論社
『るるぶ情報版 ドイツロマンティック街道』 JTBパブリッシング
伯林の参謀本部の赤煉瓦の建物、赤小屋、赤い家などと呼ばれていたそうですが、その正確な建設とその完成時期を確認できませんでした。話を進めたかったのと、ここが以降の主な舞台とはなりませんので、さらっと流して、ご勘弁ください。




