九
「アデライーダの情人の名を聞いても役に立つとは思えない。それよりも伯林で顔を合わせる可能性のある夫君について教えて欲しい」
ローデンブルク伯爵といったか。アグラーヤは苦笑していた。
「アデライーダの夫はハインリヒ・フーゴー・ベルトラム・フォン・ローデンブルク伯爵といいます。本人は洗礼名ではなくてベルトラムと呼ぶように言っています」
「フランスに親戚がいるのか?」
「さて、わたしは正確には知りませんけれど……、いらっしゃるでしょうね。フランス風のお名前だと思ったのですか?」
「いや……」
愚問だったな。伯爵様ならフランスどころかイギリスやハンガリーに親戚がいてもおかしくない。
「わたしは、そう何度も顔を合わせていませんが、ベルトラムは信頼できる人物だと思いますよ」
あまり会ったことのない姉の夫ではそう評するしかないだろう。しかし、アグラーヤは言葉を続けた。
「華やかな美人の妻を持った地味な男性、そういった印象の人です。でも、知識が豊富で、背中や手にも目があるのではと思うほど、短い間に観察を済ませているような人ですよ。
ちょっとのお喋りの間に、あれこれと言い当てられてびっくりしましたから」
数少ない面談の合間に抜け目なく相手を読み取るのはいいが、あえてそれを披露してみるのは軽率からか、妻の妹に印象付けようとふざけてみせようとしたからか。アグラーヤの話だけでは判りかねる。だが言える。
「それは油断ならぬ御仁だ」
「ですから、伯林に折衝役で赴いているのでしょうね」
今更どういう駆け引きをしようと考えての派遣かハノーファー側の思惑は知らないが、人事の裁量や慣習法部分で有利を残したいからなのは確実だろう。俺には興味のない分野になるが、行政や法の執行を行う文官には面白い仕事となるはずだ。
「俺はこのまま伯林へ出向となるが、貴女は変わらずローンフェルト家で家庭教師の仕事を続けるのか?」
「ええ、続けます。子どもたちは素直で可愛らしいから教え甲斐がありますし、ローンフェルト夫妻は良い方ですわ。夫人は、わたしが家庭教師をするのは縁談がいつも失敗に終わっているから、気の毒な境遇の娘と思って親切にしてくださるの」
子爵令嬢を我が子の家庭教師にしている優越感と慈善心があるから、そこは認めて仲良くしているのだと説明してくれた。
「俺に妙に突っかかって来たような覚えがある」
「夫人はロマンス小説がお好きだから、想像たくましくして、貴方をわたしの身分違いの恋人と信じしているみたい。いくらリンデンバウムの伯母様を通しての友人と言っても、嘘だと思っているみたい」
「暇なんだな」
「そう、道徳家ですけれど、そこはロマンスに憧れていた若い頃のままで、お節介したがるのです」
アグラーヤは表情を改め、真剣に告げた。
「アレティンさま、ここでのことは絶対に内緒ですよ。わたしも、貴方も。庭から席に戻っても、何も知らない、何も気付かなかったで通してください。それがアガーテの一番の仕合せです」
そうだな、あの幼い娘にとってはそれが一番健やかに過せるのだ。俺が口出しできる資格はない。ホルバイン子爵夫妻はよい養い親だ。
「貴女の父君やホルバイン子爵夫妻に感謝を告げてもいけない?」
「ええ、何も言わないで。お判りでしょう」
俺は黙って肯いた。




