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君影草  作者: 惠美子
第十三章 昴、伯林、そして……
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「アガーテはホルバイン子爵家の長女、嫡出子として扱われています」

 アグラーヤは冷静に答えた。ですから貴方は何も心配せず、何も負担する必要はないと、はっきりと告げた。

「教育も受けさせ、年頃になれば持参金を付けて縁談を考えるでしょう。

 わたしは働きながらでも自分で育てて見せると決めて両親に話しました。人知れず里子に出すなんて考えたくありませんでした。わたしが少なからずそれまでにご縁のあった方々とは、おぼろげな記憶しか残されていません。また貴方とのことを遠い記憶の彼方の一つにしたくありませんでした。自分が生きて、行動してきた(あかし)をこの手に残したいと望みました。わたしの体に宿った証です。

 両親とアレクサンドラ、それにダーフィトが加わってわたしを説得してきたのです。未亡人ならともかく、未婚のわたしが子持ちで働こうとしても無理だと、何回も言われました」

 確かに未婚の女性が子どもを抱えること自体外聞が悪いのだから、家庭教師や養育係として雇おうとする家庭は皆無であろう。

「頑ななわたしに、里子が嫌ならその子を自分の子として育ててもいいと、ダーフィトとアレクサンドラが申し出てきました。夫婦で話し合って、わたしにも子どもにもそれが一番いいのだと決めて提案してくれたのです。両親もそれなら安心できるだろうと賛成してきました。

 義兄は人情家で信頼できる人です。わたしはその提案を受け入れました。近い場所で娘の成長を見聞きでき、母ではないけれど、叔母としてあの子の人生に関われる。貧と、父のないことでアガーテを悩ませない。

 逃げだと言われればそれまでですが、そうすることで、わたしは働きながらなんとか暮らしていける。娘はふた親のある家庭で育てられ、両親と姉たちは、わたしが独り身のままて子どもを抱えて働くという、外聞を憚られる真似を見ないで済んだのです。

 アレクサンドラには申し訳ないけれど、姉は妻や母として立派な女性です」

 アレクサンドラが子どもたちを抱きよせる姿は嘘偽りなく、いつもそうして愛おしんで過してきている自然な振る舞いと思わせる。アガーテがアレクサンドラを慕っているのは一目瞭然だった。

 ホルバイン子爵が妻と同じ気持ちでなければ、そういった親子の情は芽生えないのだろう。俺に語り掛けたのは皮肉ではなく、気付きの促し、そして裏表のない人柄があるのだと思う。

「もしかして、アンドレーアスも知っていて、俺だけが知らなかった?」

 アグラーヤは肯いた。

「ディナスさんが家庭教師の紹介状をと直接いらっしゃって、わたしの身重の姿を見られました。出産が済むまでお待ちいただけるか、また、別の機会にしていただければとお話しまして、その後貴方からの口利きの話題になりますから、ディナスさんもお察しになったのです。貴方は知らないことだから、内緒に、絶対知らせないでとお約束しました。

 ディナスさんは怒って、どうして知らせないんだと言いました。わたしなりの事情を説明するしかありませんでした。納得なさってはいらっしゃらないようでしたが、とにかく貴方に黙っていることだけは守ってくださいました」

 だから、戦争に行く前に面会に来た時に、突っかかってきたのか。今にしてみれば得心がゆく。アグラーヤが付いていなければ、約束を守るどころか、全てを話しただろう。乳兄弟ゆえか、自分のことは棚上げして俺には行儀よくしろと説く奴だ。

「俺だけが何も知らないで今まで過してきた」

 ぼんやりと俺は呟いた。何も知らされていなかった上に、父親の義務を果たさなくていいと言われて、身軽さを喜ぶよりも、信頼されていなかったと、買い物の釣銭を誤魔化されていた気分だった。世間体を無視した、幼稚な言い分だ。

 むしろ感謝すべきなのだとは解っている。

「そんな顔をしないでください、アレティンさま。

 今日はささやかながらご栄転の壮行会のつもりでしたのよ。伯林に義兄が一人滞在しているのを父が話していましたでしょう? それも含めて、軍以外のことで伯林のお話をお耳に入れて差し上げようと、それだけしか考えていなかったのです。本当です」

「感謝すべきなのだとは判っている。貴女には貴女の都合、そして貴族社会での体面がある。解っている。だが、俺はどうしたらいい?」

 アグラーヤは俺を真直ぐに見た。

「貴方は貴方の生き方をする。それだけです」

 突き放すようでもある、その言葉。改めて聞かされ、冷水浴をしたように、新鮮な気持ちを取り戻せたような気がする。

 後ろを向いている暇があったら、どんなに困難でも前に進む。それだけ。少しも難しくない。

「ところで、アガーテの件はアデライーダも知っているのだろう? 伯林で顔を会わせても何も言ってこないだろうか」

 以前、知性的ではないと感じた女性だ。ぺらぺらと要らぬお喋りをしないか心配になる。

「結婚を焦っていた時とは違います。それにアデライーダだって妹のことを言って恥をかくのは自分だと判っているはずですわ。

 貴方がアデライーダから絡まれたらと気掛かりなら、お守り代わりにあの人の愛人の名前を何人か教えて差し上げますわ」

「……」

 アグラーヤが俺に一切知らせずにいてくれたことに感謝するだけでなく、喜ぼう。男としての責任だと結婚でもしていたら、早まったと後悔の日々を送る破目になっていた。

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