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君影草  作者: 惠美子
第一章 少年期
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 両親から愛された記憶がない。俺は誰をも愛さず生きていくのだろう。

 五歳で母を、十二歳で父を喪った。だが両親が亡くなる前から俺は一人だった。

 十五歳の時に母方の祖父を見送った。父方の祖父母と、母方の祖母は俺が生まれた時にはこの世にいなかった。父が一人っ子だったのと、父が人づきあいを一切断っていた所為で、俺の近くにいる人間は使用人たちばかりだ。

 ――おまえは生まれてこなければよかった。

 父は俺の顔を見ればそう言った。

 俺が生まれてこなければ、父は、そして母は仕合せだったのだろうか。俺が存在しなかったとしても、両親が仕合せに暮らせたようには思えない。

 仕合せ。

 愛情。

 そういう言葉、観念があることは知っている。だが判らない。もしかしたら判っているのかも知れない。だが判りたくないし、信じたくもない。

 俺には縁がないものだ。

 俺を育ててくれた使用人たちに誠意がないとは言わない。事実彼らがいなければ親から捨てられたも同然の俺は生きていけなかったし、人間として、貴族としての躾がなされなかっただろう。彼らの献身には感謝している。

 使用人たちは平民も貴族も同じ人間だと言うし、俺もそれは正しいと思う。たまたま生まれついた環境が違っていただけ。しかし、彼らは俺に対する時違う。身分の上下は厳然と存在し、それを侵してならぬと振る舞う。親の情愛を知らぬ子供にとって、血の絆を信じられず、日々の触れ合いを信じかけていた者にとって、辛い現実だ。


 あれは父が亡くなってすぐのことだった。

 俺は悲しかったというよりも葬礼の慌ただしさや、重い軛が突然消え去ってしまったことにただ呆然としていた。執事のディナスの采配で父の葬儀が終わり、屋敷は普段どおり親のない子と使用人たちだけに戻った。どっと疲れが出て、俺は一昼夜眠っていた。目覚めて、乳兄弟のアンドレーアスが側にいた。乳母が俺を一人にしておいてはいけないと判断していたらしかった。

 アンドレーアスは乳母の息子ではなく、ディナスの兄の子だ。俺の養育に同じ年恰好の子供がいた方がよいと使用人たちが考え、乳母には子がなく、ディナスの兄夫婦に幾人かの子があったので、一人を主人の子と一緒に教育を受けさせることを条件として、俺の乳兄弟として奉公させていた。アンドレーアスは俺を慰め、明るく話し相手をしてつとめてくれた。一昼夜眠ったあとなので少しも眠くならなくて、夜半まで起きていた。十二歳の子供が真夜中まで目覚めていると、次には空腹を覚えるようになる。俺は何か食べたいとアンドレーアスに伝えた。アンドレーアスは大人を起こそうとは微塵も考えていなかった。適当に見繕って持ってこようとも言わなかった。一緒に厨房に忍び込んで食べようと提案した。面白い、行ってみようと、俺はアンドレーアスについて厨房に入った。使用人たちは葬儀のあとにきっちりと片付けて、主人の俺が休んでいる所為もあって、早々に部屋に下がっていた。アンドレーアスは無人の厨房に入ると、手慣れたもので、果物やらジャムやらを見付けてきた。古いパンをさっと焼いて腹に収めた。

 俺とアンドレーアスにしてみれば、空腹のあまり仕出かしたことだったし、夜更かしを大人に知られたくない気持ちがあったのだ。しかしそこは子供の悲しさ。ジャムの壜やスプーン、ナイフを出しっぱなしにして部屋に帰って、朝まですっかり忘れていた。

 翌朝、俺とアンドレーアスはディナスと乳母にこっぴどく叱られた。

 曰く、館のあるじたるもの厨房で食事をしてはいけない、そんなことをしていては使用人から侮られるもとだ、いくら遅い時間帯でもアンドレーアスに誰かを起こしに行かせるべきだ。この館には俺の身の回りを世話する係もいれば、司厨長もいる。彼らの職務をないがしろにして勝手な振る舞いをしてはいけない、主人としての行動を自覚しなさい。

 曰く、貴族を厨房に案内させて食事を摂らせるなんてとんでもない、(わか)い主人にはまだ判っていないようだが、普通の貴族の家であったら鞭で打たれるくらいの無礼な真似をしたのだぞ。

 ――身分を弁えなさい!

 この出来事があってからアンドレーアスは貴族に仕えるのは正しくない生き方と考えるようになった。十六歳になったら商業学校に進むと、この家から、アレティン家から離れると決めた。


 俺は一人だ。

 広いばかりで空虚な邸宅。

 飢えることも渇くこともなく、住む家も衣服足りていて、しかし人間はそれで満足できないし、仕合せにもなれない。

 父母から受け継いだ財産は多額の現金、債券、不動産、宝飾品。

 宝石の輝きと美しさは心を慰め、目にしている間は心を和ませる。だがそれは長続きしない。宝石は永遠不変。人と違って完成されているから美しい。俺は琥珀に閉じ込められた虫だ。生きながら死に、周りの空気の移り変わりをただ眺めているだけ。

 俺は宝石のような無機質じゃない。

 俺は生まれてくるべきではなかった。だがこうして生きている。琥珀の中の虫のように窒息しながら。

 貴族は働かなくてよい。労働に従事しないからこそ、生活に追われることがない余裕があるからこそ、優れた才を国政、軍事、芸術に活かせる。

 下級貴族――、爵位もない最下級の騎士の俺がそんなことを抜かしたところで何の足しになる。親の遺産で食いつないでいく人生、それこそ俺は生まれてこなければよかった。

 生まれてきたからには自分の手で何かを成し遂げたい。生まれてきた実感が欲しい。

 軍人の道を選ぶのは何ら不自然なことではない。下級貴族であっても才能と運があれば栄達を望め、直截に生命の遣り取りを行う仕事。

 きっと充実を知ることが出来るだろう。


 ディナスは旦那様のお決めになったことです、と言った。

 伯母は、一番近い親戚の母方の伯母、フェリシアは何と言ってくれるだろう。俺は伯母に、士官学校を進路に選ぶと手紙で知らせた。伯母からは、こういう報告は手紙だけでなく、直接伝えるものだと返事が来た。士官学校に入る前に一度顔を見せるようにと。

 俺は伯母の手紙をディナスに見せ、伯母の意向を伝えた。

「どう思う?」

 俺はディナスの表情を何一つ見逃すまいと問い掛けた。

「リンデンバウム伯爵がぜひにと仰言っておいでなら、訪問なさるべきです」

 いかにも仕事中といった顔しかしないディナス。少しは嬉しそうに勧めてみないものか。

「そうしよう」

 と俺は答えた。日程を決め、リンデンバウム家に伝えるようにディナスに命じ、下がらせた。

 一人になってふと考える。

 伯母が俺に愛情や興味を抱いているかは知らない。きっと愛してくれてはいないと思う。伯母は笑わない。

 伯母は俺と同じで家族がいない。伯母の両親、つまり俺にとっての母方の祖父母も、俺の母を含めた伯母のきょうだいたちも既にいない。伯母は独身だ。病勝ちであるのと、先の当主の不行跡で家門が傾いている所為で、縁というものがないらしいのだ。

 その点を伯母がどう考えているのか、俺には推し量ることができない。

 伯母も俺と同じように、人を愛せないで過してきたのかも知れない。

 幼い頃の断片的な記憶。

 何かを訴えるようなディナスの真剣な眼差し。こみ上げてくる感情を堪える伯母の(こわ)い顔。俺もその強い顔に睨まれ、伯母は屋内に去った。庭に取り残されたその時は、自分が嫌われたのだと思った。琥珀は傷の付き易い半貴石。付いた傷は丁寧に磨いてやらないと消えない。傷は長い間放って置かれた。俺は自分の成長の中で、あの時のディナスと伯母の表情の意味するところをおぼろげながら悟った。伯母から拒絶されたのは俺ではなく、ディナスだった。

 気の毒なディアス。

 貴婦人が違う階級の人間と心交わすことはない。だからこそ気高く、夢見るように美しい。

 ディナスはそれをよくよく判っているはずなのに、何故伯母を愛しているのだろう。

 いや、理屈などないのだ。

 父が母を愛したように。

 何故結婚しないのかの問いに、旦那様が一人前になるまで余計なことに気を廻したくないのです、と答えたディナス。

 分を弁えるのは美しいが、硬直してしまう。

 ディナスも俺も人には心を開かないし、伯母も本心を見せた(ためし)がない。

 似たもの同士、偽って、和やかに過ごすのだ。


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