追うもの追われるもの
フランシスは言葉を理解していない。だから、意思を伝える言葉を持っていない。それ故に、意思疎通が難しかった。
ミケーレは、フランシスを抱いて、スレイプニルの手綱を曳いて町の外れまで歩いた。そして、そこから馬上で揺られることになった。ミケーレがフランシスに最初に尋ねたのは、『父親のもとに戻りたいか?』と言うことだった。でも、ミケーレには通じてないのか、首を傾げる。
「私は、ミケーレ」
そう言って、自分の胸に指を向ける。そして、フランシスを指差して『フランシス』と言ってみた。そして、もう一度同じように、自分を指して同じことを繰り返す。
「みけーれ!」
驚いたことに、フランシスの口から出てきた言葉は、少し訛りがあるようだが、それでもしっかりその音を発していた。喋れないとは思えないほどの滑らかさで、自分の名前がフランシスの口から出た。そして確信した。ミケーレの耳はちゃんと聞こえているのだ。
「傷の手当をしたいが、俺は急いでいるんで、このまま手当をさせてくれるか?」
再び、首を傾げる。ミケーレは、馬の腰辺りにある袋を取り出し、軟膏を取り出した。そして、自分の腕に塗ってみせる。
「薬だ」
「くすりだ」
「ああ、違う違う……『薬』」
「くすり」
とりあえず、音を拾うことはできるようなので、喋れるようになるには、時間がかかるかもしれないが、いずれは話せるようになるだろう。
自分の子供たちが、話し始めた頃のことを思い出して、思わず微笑んでフランシスの頭を撫でてやろうと手を出すと、フランシスは急に体を固くして目を閉じてしまった。
ミケーレはすぐに動きを止めた。この反応が殴られ続けた者の反応だとすぐに解ったからだ。が、それでもミケーレは、止めてしまった手を再び動かして、フランシスの頭を撫でてやった。
何をされているのか解ったのか、固くした体を少しずつ力が抜けていった。ミケーレは、腫れ上がった左目の周囲と、赤黒い口元の痣に薬を塗ってやった。
「フランシス、お腹はすいたか?」
「?」
再び、指でフランシスのお腹を指差して、そして、何かを食べるジェスチャーをした。すると、こくりと頷くので、持ち歩いているパンを取り出した。それと、昨夜、道中の慰みに摘んでいたベリーを手に持ったまま、フランシスに差し出した。
フランシスは、不思議なことにパンをちぎっては捨てているのだ。何をしているのか見ていると、まるで、皮を剥くようにパンを薄く剥くと、中に指を突っ込んでつまみ出し、それを口に入れるのだ。パンの外と中で違うことは固さだ。柔らかい部分を探して、パンを口に入れているのだ。子供の歯では、このパンが食べにくいのだろうか、自分の子供たちを思い出すが、パンをそのまま食べることはなく、スープに浸して食べている所ばかりを思い出す。パンだけを与えたのは酷だったかと、手にあるベリーをフランシスの目の前に持って行く。
「済まないな、数日したら、ちゃんと風呂にも入れてやるし、美味いもんも食べさせてやるよ」
当然、フランシスには全く通じていないのは解っている。それでも、話し続けることが大切なのだと教えてくれたのは、妻のイングリットだった。レギンがまだ話せない頃に、イングリットはレギンに良く話しかけていた。
ある日、やはりレギンにしゃべりかけながら、食事を与えているイングリットに、『話しても意味が解らないだろう』と言うと、彼女は笑って『それじゃぁ、レギンが話せなくなってしまうわ』と言った。赤ん坊のころからいろいろな言葉を聞かせれば、理解が早くなると言うのだ。
それから数年たって、アーベルが生まれた頃に、赤ん坊のアーベルに話しかける彼女に言った。『レギンは、あんまりしゃべらないぞ』と、すると、イングリッドは笑って、レギンはもともと多くを語らない子なのだ。だから話しかけてよかったと言うのだ。
「あれで、話しかけていなかったら、あの子の声を聞けるのは年に何回だったのかしら?」
モノは言いよう、考えようだなと思った。
そんなことを思い出していると、急に左腕が重くなった。いつの間にか、フランシスがパンを持ったまま、こくりこくりと船を漕いでいる。だが、パンが減っているようには見えないし、ベリーもまだ沢山残っている。少し心配だが、物を食べながら眠ってしまう子供は、ミケーレは自分の子供で経験している。そして、そっとその手からパンを取ると、フランシスをそのまま寝かせてやることにした。
理由も解らずに、見知らぬ男に連れてこられているというのに、無防備で自分に凭れ掛かるように寝る姿は愛らしいと思えるが、それ故に、無惨な顔に残された暴力の跡が益々痛々しく感じられる。
「さて、この子をどうするかな……」
義を見てせざるは勇なきなりとばかりに、この子を連れて来てしまった。頭の中に弟のダービッドが文句を言っている様が浮かんで来た。
しかし、あれはダメだ。子供を殴るなど、ミケーレの中では最もありえないことだった。それを、平然と、それもこんなに酷く殴るなど想像しただけで身震いしてしまうと、嫌悪感でいっぱいになるのだ。
もう、エイナを連れ去ったヤツらに迫っていると感じているミケーレは、ここ数日でエイナを取り戻せると思っていた。その時にフランシスを連れているわけにはいかない。そんなことは、考えるまでもなかったのだが、でも、どうしても、何度考えても、やはりフランシスを助ける選択肢以外の方法を思いつかなかった。
辺りが薄暗くなる中、休みを取らずに馬を進ませる。先を行く逃亡者は、「この国境を越えれば」と思っているはずだ。国境を越えた町に入ってしまえば、また姿を晦ませるには容易なことだ。だから、この国境を一刻も早く越えたいと思っているはずだとミケーレは推測している。
ならば、このまま夜も走り続けるのではないか。
そうなると、どこかで天幕を這って、フランシスをそこに置いて行くしかなかった。心配なのは、フランシスがそこでじっと待っていてくれるかだ。まぁ、最悪スレイプニルを残して行ってもいいかもしれないと思っていた。
「いや、それよりも……スレイプニルに乗せて、後方に引かせるか……」
ミケーレはあれこれ考えているが、我関せずと、スレイプニルは意気揚々と足を進めて行く。
人や馬車の往来が少ないのは、もう日が暮れようととしているからだ。所々にある、ちょっと道が広い場所に野営を作り始めているからだろう。
色々考えてきたミケーレは、追っている馬車を視界に入れたら、スレイプニルにフランシスを任せて後方に引かせようと決断した。
馬車はゆっくりと、狭い渓谷を進んでいた。
明日には、目指す町がその目に入ってくるだろうと、御者台の男は思っていた。その目に町が写れば、あとは真っすぐ下る道を降りて行くだけだ。その景色は、町から山を登る道なのだ。男はこれから行く町に、何度となく訪れている。でも、いつも見るのは、緩い傾斜の上り坂だった。この道から町に入るのは、初めてだった。
「そろそろ、代わりますので、少しお休みくだい」
「ああ、解った」
荷馬車の真横にある、窓から顔を出す部下が、そう声をかけてきたので、ゆっくりと馬車を止めた。
「明後日の朝には町に入るかと思いますが、ゲレオン様はいかがなさいますか」
「このまま同行する」
「では、野営はいかがしますか?」
「……」
ゲレオンは、御者台から降りると後ろに回った。後ろの荷台のドアが開き、部下の一人が降りて来た。
「例のものは何か異変はなかったか?」
「はい、静なものです」
「アルシの具合はどうだ」
「傷の具合も良くなていますし、もう、影響もそれほどないです」
「では、このまま進めることにする」
「承知しました」
ゲレオンは、荷台に乗り込みドアを閉める。途中で、荷を捨てたので、最初の頃よりは随分広くなっていた。
「どうだ、腕の傷は?」
「はい、申し訳ございませんでした」
アルシと呼ばれた、随分と歳若い男が頭を下げた。
「お前は、任務をちゃんとこなしたのだ、あれは誰にも予期できない出来事だったのだ……」
そう言いながら、ゲレオンですら苦痛を感じる。予期せよと言う方が、土台無理な話しなのだが、それでも失ったものを思うと、いつまでも何か方法があったのではないかと考えてしまう。
ヴァレニウス公爵家を出立した荷馬車は、眠るエルナを乗せてフレドホルム領地にあるヒミン湖へ向かった。街道を避けて脇道の農道や林道を進み、時には獣道のような場所も通った。途中、放棄された放牧地の横に建つ牛舎らしきものに、隠しておいた馬車に乗り換えた。
そして、一路北を目指して馬車を進めたのだ。
思わぬことが起こったのは、進路を西に変えてしばらくだった。ヴァレニウス国の最も北にある街道を進んでる時だった。本来なら、この街道を目指して東に進むのが最も早いのだが、それでも進路をわざわざ西に向けたのは、ゲレオンと合流するためだった。
捜査をしているこの国の貴族や騎士団の動きを最後まで見守るために、ゲレオンとその部下数名はヴァレニウス公爵家に残った。エルナが自ら王都へ向かったのではなく、攫われたのだと知られ、エルナを探していた騎士団が捜索・追跡に全精力を向けたのは、事件から5日目だった。
捜索をヴァレニウス公爵から賜ったと言うかたちで、それぞれの騎士団の様子を伺いつつ、北へと進路をとったのだ。もう、ヴァレニウスには戻るつもりはなかった。
騎士たちの動きは、ゲレオンの予想した通りの動きだった。王都を中心に各地にちらばり、その痕跡を探すこと、不審な者の目撃者を探しならが進んでいた。しかし、その時、北への捜索の人数が少ないことに疑問を持った。
その謎は、その時には解らなかったのだが、自ら北へと向かった時に理解した。何故か、フレドホルム領の北にある町に、騎士団が集結していたのである。よく見ると、王の騎士団ではなく、ノルドランデル侯爵の騎士団だった。
ノルドランデル侯爵の孫娘の行方が知れないのだから、侯爵が自分の所の騎士団を貸し与えるのはまぁ、想像できる。だが、他の地域と比べて騎士団の歩みが早すぎるのだ。何か不手際が起きたのかと、脳裏に浮かんだのだが、どう考えても計画に齟齬が起こったとは思えなかった。それでも何か可笑しいと感じることは払拭できなかった。
少し様子を伺うか、それとも早く合流をするか考えてみた。このまま、ここで騎士団の動向を調べていると、合流するはずだった場所でそれが叶わなくなる。そのうえ、仲間に合流地点で留まって待たすのは最悪だ。自分たちが先手を打てているのも、止まらずに動いているからなのだ。
最悪、騎士団と部下たちがかち合った場合、疑われずに通り過ぎることができるのか、何とも言えない。が、そんな危険を侵すことはない。早く合流して、ルートを変更するに限る。
運搬しているエルナという子供をこの国から連れ出す方法はいくつかあるし、その段階でも追手の様子を見ながら、常にいくつかのルートを考えていた。本来なら、ヒミン湖の西岸を北上した部下たちは、北の街道に出ると、東に進路を変更して、今度はヒミン湖の東側を行く予定だった。ヴァレニウス公爵領に再び向かうルートは、その頃には、捜査が開始されて、騎士団が王都より放射状に散るだろうと思っていたし、その対象は、王都から離れるルートをとっている者に限られると思っていた。そして、王都の全ての地域に騎士団が散った頃に、国境に向かうつもりだったのだ。
馬車はすでに変えているし、姿を本来のものとは全く違うものに見せる護符も、馬車には施されている。
確かに、国王に継ぐ家名を誇るヴァレニウス公爵家の令嬢で、アルヴィース候補の子供だとしても、何故攫われたのか、その本当の理由を知っているのは、我が主の他にはいないのだ。王都でも混乱しているだろう。
そして、先に合流するために、ゲレオンはその町を後にした。だが、合流先には、エルナを乗せた馬車と数名の部下だけだった。そこには、いるはずの数人の部下と、子供の頃から見知った懐かしい笑顔は無かったのだ。
「お前は、ギードの命令を実行しただけなのだ」
ゲレオンは、暗い顔でうつむく歳若い部下の肩にそっと手を置いた。
ゲレオンの最も信頼できる相棒で、優秀な男は死んだ。それはもう、どう後悔しても何も変わらないし、今はただ、ギードが命を落としたこの任務を早く終わらせたいのだ。
ヴァレニウス王国に入ったのは、もう1年前のことだった。あの時は、この道は雪に閉ざされていたために、海から王国に入ったことを思い出していた。
いつの間にか季節が巡って、雪は解け、木々が芽吹き、枯れ草に覆われていた大地は緑に変わった。そして今、再び世界は冬に向かって姿を変え始めていた。
長い時間をかけて決行された計画そのものは、問題なく進んでいる。だが、全く思いもしなかったことが起こったのは、今から三つの月を遡る頃だった。ヒミン湖の東側を北上した逃走ルートは、湖を通りすぎ、東西に貫くこの国では最期の街道まで出てきた時だった。
その詳細は、今でも良くわかっていないのだが……。