奪われた至宝
早朝に起き出したメイドは、昨日から始まった宴ですっかり疲れ果てていた。運悪く2日目は普段通りの仕事が待っていると解っていて、遅くまで仲間とお祭り騒ぎに参加をしてしまったのだ。
今朝は、エルナ様の身支度をする仕事で良かったと思っていた。
エルナの部屋の前に着くと、ドアを数回ノックするが、返事も待たずに戸を開けて中に入ってしまう。少し曲がっていそうなエプロンドレスを両手で引っぱり、慣れた足取りで奥にある天蓋つきのベッドに近づいた。最初にすることは、エルナの顔色を確認し、昨夜と異変が無いかの確認である。
エルナが生まれた日から、毎日行われている、6年にも渡る習慣だ。
「まぁ、私一人でやっているわけじゃないけどね……」
そう独り言を呟いて、エルナのベッドに近づく。その時、何か違和感を感じた。どこが可笑しいのか解らずに、ベッドに近づきならが、「何か変」という気持ちだけが消えてなくならない。
エルナのベッドにたどり着いて、その違和感を理解した。ベッドにはエルナが寝ているはずなのに、掛けてある布団にその体分の膨らみが無いのだ。
瞬時に、顔色が真っ青になった。エルナはどこに行ってしまったのか? もしかして目覚めて、1人でベッドから出てしまったのか? そんなことには全く考えが及ばず、震える手を口元に持って行った。が、自分の口から発せられた悲鳴を止めることはできなかった。
クリスティーナは、ベッドから起き出して、やってきたエドナに、着るドレスを何にしようかと相談するところだった。その時、遠くだが、くぐもったような悲鳴が聞こえて来た。その声の大きさと、悲鳴の長さを考えると、物を落として壊したりした程度のものではなかった。
クリスティーナは、嫌な予感が瞬時に広がり、不安に怯えた。恐ろしくて、その場に佇むのがやっとだった。
(あの悲鳴……どこからかしら?)
エドナも、聞き耳をたてて立ち止まっている。何か重大なことが起きたら、外が騒がしくなっていくだろうが、些細なことならこのまま屋敷は静まっていくだろう。が、次に聞こえて来たのは、2、3人の者が部屋の前を走って行く足音だった。
唯ごととは思われない悲鳴と、走り去った足音。それだけで、屋敷は静まり返ってしまった。
「奥様、見てまいります」
「え、ええ……」
何か悪いことが起きたというような感覚が拭えない。エドナが部屋を立ち去ると、この静けさそのものが悪い意味に感じる。
震える手を、もう1つの震える手と重ねあう。そして、胸元にもっていくと強く握りしめた。そうすれば、少しでも自分に災いを跳ね返す力が湧いて来るような気がするのだ。
外は、先ほどの悲鳴が嘘のように静まり返っている。本当は、何も起こってはおらず、さっきの悲鳴も自分の聞き間違えなのではないかと思い始めた頃、外の様子を見に行っていたエドナが、部屋へと入ってきた。
色々な「悪いこと」を考えてみたのだが、多分、そのどれにも当てはまらない、もっと大きなことが起こっているのだと理解した。エドナがノックもせずに現れ、その顔色が恐ろしいほど真っ青なのだから……。
「奥様……お座りになってください」
「……」
血の気が引いて行くのが解る。言われた通り、化粧台の前にある椅子に腰掛ける。と言うより、力が抜けてしまったのだ。
「奥様、エルナ様が……」
「えっ? エルナに何が?」
思いもしなかった名前に、条件反射で立ち上がりかける。それをエドナが、肩に手を置いて制した。
「エルナに何が? あの子はいつものように寝ていたのよね」
「今朝、いつものようにお世話に行ったものが、ベッドが空なのを見つけたそうです」
「エ、エルナ」
クリスティーナは、エドナが押さえている力をはねのけて椅子から立ち上がった。
「クリスティーナ様?」
(行かなければ……)
自分がまだ、人前に出て良い姿で無いことも忘れ、子供の頃に、嫌がるクリスティーナを小脇に抱えて、無理に勉強をさせた怪力のエドナに押さえられているのも忘れて、クリスティーナは椅子から立ち上がると、足を前に動かした。
クリスティーナを止められないと思ったのか、エドナは慌ててローブをクリスティーナの肩にかけて、歩いているクリスティーナを物ともせずにローブの前を合わせると、紐で結ぶ偉業を成し遂げた。
クリスティーナの足取りは、もう、エドナが小走りせねば追いつけないスピードになっている。
2つ先のエルナの部屋に、おかまいなしに入り込んだクリスティーナの瞳には、ベッドしか見えていなかった。すぐに、エルナがいないことなど解るはずなのに、良くみれば、もっと近づけばエルナの姿が見られるのではないかと、足早やに近づくが、やはり、いなくなったエルナの姿を見つけることは出来なかった。
すぐに、歩調が遅くなって、ベッドの傍らに立ち尽くすことになった。「おはよう」と言いながら撫で、柔らかい頬にキスをすることができる存在がいなくなった。
「エ……エルナは……」
ここで初めて周囲を見渡す。部屋から付き添ってきたエドナと、部屋の隅で震えながら涙をするメイド。そして、最近良く見るようになった、恐ろしげな傷が左目の横にある冷たい瞳とぶつかった。
「アードルフ様は?」
「ヴァレニウス公爵様は、異変の報告のあと、騎士達に周囲を捜査させるために陣頭指揮に……」
「エ……エルナは……目覚めたの?」
「解りません」
「1人でどこに行くと言うの?」
クリスティーナの瞳から、一雫の涙がこぼれ落ちた。
「目覚められたのでしたら、王都に向かった可能性もございます」
「あの子は、昨日、やっと6歳になったばかりなのよ……」
「……アルヴィース様ですから……」
アルヴィース様として目覚めると、王都に行くことになっていた。それも目覚めたアルヴィース様は知っていると言う。だから、6年間も見守り続けた私にも何も言わずに行ったのか? それとも、やはり、エルナは別の人間になっていて、自分のことも解らないのか?
次々と溢れ出すのは疑問ばかりではなく、涙もはらはらと頬を流れて行く。貴族たるもの、人前で感情は勿論、涙などを見せることはない。が、クリスティーナには、そんなことどうでも良かったのだ。出てくる涙を止めるために、両手で顔を覆ったのだが、そんなことで涙は止まらない。自分を誤摩化すために、悪い出来事を次々否定してみるが、涙は止まらないのだ。
あの子を産んだこの体は知っているのだ、もうあの子はいないのだと。
クリスティーナの口から嗚咽が漏れ、崩れるようにベッドに撓垂れかかると、声をあげて泣いていた。クリスティーナの悲痛な慟哭は、エルナに届くことはなかった。エルナがいる場所は、誰にも想像できな程、遠くにあった。
暗闇を静かに進む荷馬車には、行商人の馬車で、木製の覆いに囲われた荷台には、所狭しと金属製品の日用品が詰め込まれていた。ここ数日、周辺の町や村で商いをしていたのだが、今日は隣の領地に向かうために早く宿を発ったのだ。
馬車の御者をしている男は、商いをしている間、人々に顔を覚えてもらい、言葉を交わす人々に好感を持たれた。口が上手いのもあるのだが、屈託ない笑顔や、値切られても気の利いた言葉1つでお客をその気にさせた。そして、その客も値切れなかったわりには、笑顔で店を離れるのだ。時には、お客が心配するくらいに大負けしたりもした。
とにかく、好かれることはあっても嫌われることの無いように見受けられる。行商人にとって、否、商売人にとっては必要な才能だろう。
目深にフードを被り、欠伸をする。悪戯をしている子供のように輝いていた瞳は、今は細められていた。フードの中身は全くの別人のようだった。目線を動かすだけで周囲の様子を伺い、五感を研ぎすましている。
荷台の鍋やら鋤、鍬が詰められているその奥に、この世界の至宝が積み込まれているのを知るものは、自分ともう1人の男だけだ。荷台の中で仮眠をとっている部下1人と、警戒をしている2人にも知らされていないのだ。
町を出るころに使っていた大きな街道から、徐々に脇道へ脇道へ、そして獣道へと踏み込む。馬車が通れる道なのかは、確認済みだ。これから通る道は、全てこの目で確認しているのだ。馬車が通れなくなるとしても、それは自然現象で、土砂崩れや倒木などであろう。それでも、可能なかぎりは予定した道を進むつもりだ。
朝になれば、あの館では大騒ぎとなり、この領地にいる騎士団によって追手がかかるだろう。だが、その辺は心配はしていない。あの男が、上手く操るだろうし、目につくように、数台の荷馬車などを別方向に走らせている。最も注意しなければならないのは、至宝がいつあの屋敷から出たのかと知られることだった。知られてしまえば、馬車での移動時間を計算して、居場所が解ってしまう可能性が高くなる。まだ数時間なら、騎士団があらゆる道を捜索できる範囲でしかない。
だが、その心配もあの男がどうにかするだろうと確信めいた自信があった。あれはああ見えても、恐ろしく細かいことも見逃さない男なのだ。
「……ほんと、お袋みたいにさ……」
何度も揶揄った言葉を口にする。背中の心配をする必要はないと、心からそう思うのだ。
荷馬車は、最初の目的地、テグネール村を目指してひた走る。