ヴァレニウス公爵家の宴
広大な敷地が広がるヴァレニウス公爵領。
この国の名であり、国王の名のついたこの土地は、今から500年前に王都であった場所である。豊穣な大地に広がる麦畑、国が栄えるのと比例して、町が街へと大規模な都市に育っていった。
時の王が、増え続ける街の規模に対して、農地は減って行き、収穫高を落として行く問題を解決するために、王宮を移し、その地を新たな農地として開墾する勅命を発した。
ある程度の規模になる街からの遷都は、大事業となって国家予算を逼迫させた。当然そうなることなのは、周知の事実であった。が、それでも遷都を強行したのは、1人の青年の計画であった為だ。
その青年の名前は、アルヴィース・シモン。この世界に知識を授ける賢者だった。
アルヴィース・シモンは、『米』なる植物を栽培して、その米から、新しい酒や調味料を作り出した。この米なるものは作付面積に対しての収穫量が多く、収穫した後もかなり長い間保存ができることが重宝されたのだ。
新たに発見され、システム化された稲作の土地の確保も必須になった。
それから300年後のヴァレニウス領は、今でもその名残で稲作が最も盛んな土地であり、莫大な税収を生み出しているのだ。その莫大な税収を生むこの領地は、遷都より300年続いて国王の最も近い血筋のものに与えられて来た。また、元王宮の跡地は、その領主の邸宅になっており、その規模はどこの領地よりも広大で贅をつくされている。
現在のヴァレニウス公爵は、名をアードルフと言う。国の西にあるノルドランデル領主の嫡男であったが、現国王の末の妹と結婚したために、ヴァレニウス公爵家を継ぐことになった。ヴァレニウス公爵家という、王国で最も大きな発言力を持つ家の主としてはまだ若輩ではあったが、国王の側近の家臣として、領主としての役目を勤めている。
今日、最初の鐘がなっている中、領主の館の敷地では、メイドたちが大勢動き回っていた。朝の6時から鳴り始める鐘は、この土地では一時間おきに鳴らされるのだが、メイドたちの様子を伺うに、動き出して随分と時間がたっているようだった。メイドたちばかりではなく、厩番や庭師も借り出されている様子だ。働く人々は笑顔や笑い声に包まれている。
今日は、この国で最も日が長く、命の神ソール神の力が最も強い日とされている。国の全ての人々が、この日を祝うお祭りに参加しているし、国の至る所で行われている。
ヴァレニウス公爵家で働いている者、全てにとってこの日は二重の喜びと笑顔で包まれる。1つは、日々の仕事から解放されて……とは言っても、最低限の仕事は無くなりはしないが、それでも祭りの期間は、仕事から解放されて、自分の懐の痛むことなく飲んだり食べたりできるのだ。庭には、簡単な東屋が作られ、大型のテーブルがいくつも並べられ、主から賜った布、毛糸、皮革、ボタンなどの日常で必要な品々が積まれている。これは、この屋敷で働く者への主からの贈り物だ。
そして、もう1つの喜びは、ヴァレニウス公爵家の第一子である姫の生誕日でもあるのだ。6年前のこの日、祭りで一足先に祝いの杯を交わしていた使用人達に誕生の一報が入ると、会場となっていた庭が喜びの歓声で溢れかえり、近隣の住人に「何ごとか?」と思わせたほどだ。
使えている主の子が誕生して、これほど沸き返ることはまず無い。しかし、ヴァレニウス家の使用人達は、美しく、慈愛に満ちている女主・クリスティーナを、一人残らず敬愛しており、どの使用人も我がことの様に喜ぶのは、至極当然であった。
生まれた子は、すぐにアルヴィース様の候補であると解り、さらに喜びの声に溢れ返っていった。使用人たちは、口々にクリスティーナが神に愛されているので、その子も当然、神の慈愛に包まれて生まれたが故に、アルヴィース様の候補になったのだと語り合った。
「姫様は、今年6歳になられるんだね」
「クリスティーナ様にそっくりで、それはそれは美しい姫様だよ」
「いいなぁ〜、私もいつか姫様のお世話をしたいよ」
「姫様が、アルヴィース様として目覚められたら、もっとメイドが必要になるだろうから、あんたにもお世話をする機会があるかもしれないね」
「ああ、早くお目覚めにならないかしら」
年を重ねるごとに、「目覚め」の次期が話題にのぼることが増えていった。この国を栄華に導く賢者様になるアルヴィース様は、ここ、100年ほど現れてはいない。あの酷く国が疲弊した80年前の戦乱の時も、その後もアルヴィース様は現れなかった。が、ようやく元の姿に戻ろうとしているこの国に、アルヴィース様の候補として、このヴァレニウス家に姫が生まれたのだ。
そんな騒ぎの中、この館の主であり、この領地の領主であるアードルフは、美しい金色の髪を緩く後ろに撫で付けて、透き通ったようなアクアマリンの瞳で目の前に立っている男を見つめている。その態度は堂々として威厳のあると言えば聞こえがいいが、その実は不遜で権力欲の強い男だ。そしてその美貌は、そんな実態の目くらましに役に立っているようだ。
しかし、目の前の男には、この公爵の厚顔で不遜な態度と、虚栄心の固まりであるその本音をすぐに看破した。それを補ってあまりある頭脳があるわけもないのも……。
「……例のものは手配できているのか?」
「はい、全て滞りなく……」
「途中で捕まるような、バカなことになるのはごめんだ」
「勿論でございます」
静に頭を下げる男は、数ヶ月前に雇われた文官だ。とても優秀で、瞬く間に領地内の特性や問題点を洗い出し、解決をしてしまった。歯がゆいことに、この男ほど優秀な人材が自分の手元にいないことが、アードルフを苛つかせていた。この屋敷でも、細かいことを良く見て、的確に指示を出すこの男に、皆が信頼を寄せるようになるには、それほど時間がかからなかった。
が、しかし、誰がどう見ても文官に見えない。大きな印象は感じられないのに、その身には得体の知れない力強さがある。その上、左目の外を、こめかみから頬に向かって奔る傷が、ますます武官に見える要因になっているのだ。
「それで……国境を越えるのに、どれくらいかかるのだ?」
「色の月になる前には、国境を越えることができるかと……」
「はっきりせぬな……」
「不測の事態を考えての予備的時間を考慮に入れております」
「不測の事態?」
眉を潜めて、強気の表情が焦りの色がその表情を曇らせる。
「不測の事態とは、天候が荒れて道が遮断されたり、思うように進まない時のことでございます」
慌てる公爵とは正反対に、答えた男は冷静で表情も変えない。
「みな……楽しそうですね……」
テラスに出ると、賑やかで楽しそうな声が風に乗って聞こえてくる。
「はい、旦那様や奥様のご慈悲で、今年も盛大な宴が出来ると、皆、喜んでおります」
「皆が楽しんでくれるのは、私も嬉しいのですよ」
「本当に、勿体ないお言葉です」
腰を少し屈めて、頭を下げる女性は、恰幅の良く穏やかな微笑みを絶やさない女性だ。その名をエドラと言い、クリスティーナが王宮で生活していた頃から、仕えている古参のメイドだ。
「……あの子は……もう、6歳になるのね」
クリスティーナが、自分の子の話しをする時に、その表情や声に僅かに感じる哀しさがあるのを、このエドラは見逃すはずはなかった。
周囲は、アルヴィース様候補の子が生まれて喜び、祝いの言葉をクリスティーナに向けるが、当のクリスティーナが喜んでいるわけではなかった。むしろ、普通の子ではないことを密かに悲しんでいるのだ。それは、第二子であるアードリアンが生まれてからは、その子に慰められるどころか、ますます沈む表情を見せることが多くなっていた。
「奥様、姫様が目覚められれば、一緒にお茶を飲みながら刺繍でもいたしましょう。クリスティーナ様の見事な刺繍の腕は、是非とも受け継いで頂きたいと思っております。ああ、それと、姫様に似合うドレスを作りましょう」
「ふふふ、そうね……私はエルナの為にドレスに刺繍をしてあげたいわ……」