追跡者 5
立ち寄った露店の老婆は、前の鐘の少し前に、その荷馬車は目の前を通って行ったと言った。お礼がてら、老婆の店にあった岩塩を購入して、多めの銅貨を渡した。
もうすぐ、手が届くところまで来ている。剣に着いている石が、益々強く光っているのにも気がついていた。この村から続く道は、脇に入ることができない狭い渓谷の一本道だ。見失う恐れはもう無い。
この道を行けば、もう別の国の町だ。町に入られれば、奪い返すどころか、見失うこともありえる。これが最初で最後のチャンスだと強く感じるとともに、失敗できないプレッシャーを感じる。
町に入ってからは、馬から降りて曳くのが常識だ。勿論、駆け抜けるなどすれば、罰を受けるのだ。スレイプニルは、自分勝手な所もあるし、恐ろしい程の悪知恵を働かせることはあるものの、今まで、町や村の中で言うことを聞かなくなることはなかった。
が、そのスレイプニルが、とある場所で立ち止まったまま、びくとも動かなくなったのだ。道の端を歩いていたので、人の邪魔になることはなかったが、それでも、何の変哲も異常も見られない場所に立ち止まってしまうと、さすがに困る。
「おい、どうしたんだ?」
そう声をかけても、やはり動こうとはしなかった。
溜め息をついて、周囲にもう少しだけ意識を向ける。細い小路は石畳で、人が往来すると言うよりも、奥にある家の者が使う程度の道である。その道は、人間一人が通るのもやっとな狭さだった。その両脇にある家は、民家のようだ。少し饐えた臭いがするが、奥まった場所にある家々は、スラムと化している場合があるので、それほど驚いたことでもない。
が、その小路に、何か違和感を感じる。最初は違和感だけだったのが、それは、路地に入り込むと直に解った。煉瓦の家の外壁に、白い線が無数に走っているのだ。
そして、それが、馬や猫や犬の姿なのに気がついた。
「これは……絵なのか?」
線だけで表された動物たちは、精密で緻密に描かれている。時々見る絵というものは、貴族の屋敷などにあって、色彩豊だが、それはやはり絵であって、どこか死んだものの世界に思えた。でも、この家の壁に描かれている動物たちはどうだろう。色もなにもない線だけの図なのに、こんなにも生き生きとして、今にもこの壁から抜け出すのではないかと感じられた。
どうしてそれが、そこの描かれているのか全く理解できない。
「ちょっと、あんた! そんな所で何をしてるのさ」
急に声をかけられて驚いた。驚くくらいに周りに注意をすることなく、夢中で絵を見ていた自分に気がついた。怒鳴りつけてきた年配の女性は、どうもこの絵が描かれている家の住人のようだ。
「これは……絵なのか?」
「え? ああ、これはフランシスが描いているんだよ」
「何故?」
「何故って……」
「これは、才能と言うものだろう? どうしてこれほど凄い絵が描ける人物が……」
「ああ……まぁ、いろいろとあってね」
最初は怪しい者を見る眼で自分を見ていた女性が、その問いに対して、辛そうな顔に変わった。
「あの子の家は、いろいろと問題があってね……」
「問題?」
「フランシスは、まだ6歳でね……母親はフランシスが小さい時に亡くなっちまったんだよ。それで父親が参ってしまってね……飲んだくれのろくでなしになっちまったのさ」
「?」
「フランシスは、父親に殴られそうになると、逃げて来てはここで絵を描いているんだよ」
「殴られる?」
「まぁ、時々はね……」
子供を殴るという父親に、くらりと目眩がする程の怒りを覚えた。
「その上、フランシスは亡くなった母親にそっくりでね、それもそのろくでなしには堪らないのかもしれないけどねぇ」
「しかし、子供を殴るなど……」
「家で面倒を見てもいいんだよ……でも、あの子は父親の家に帰って行くんだ」
子供にとって、どんな親でも親なのだ。それを思うと、目頭が熱くなり、怒りが膨れ上がる。
「問題なのは、フランシスは言葉が喋れないし理解できないんだよ」
「耳が聞こえないのか?」
「いや、どうもそうじゃないんだよ……ちょっとした音にびくついたりしているからね」
「それは……不思議だな……」
「……あの子はさ、最近目覚めたんだよ……」
困ったような表情をする女性。だが、彼女の言うことが全く理解できなかった。最近目覚めたことと、喋ったりできないことと何か関係があるのか?
「……フランシスは、アルヴィース様候補だったんだよ」
「なっ!」
驚いたのは、その事実ではない。アルヴィース様とは、この世界を助ける為にやってくる賢者だ。それをその身に受けるであろうと思われる子供は、須く、王都で保護されて育てられるのだ。それなのに、何故こんな王都から最も離れた場所にいるのか理解できなかったのだ。
「母親がフランシスを手放したがらなかったと言うのもあったし、どう言う判断だったのか、フランシスには国が許可を出して、母親のもとに残すことになったんだ」
「そこまでして、手元に残したと言うのに、その子を殴るのか?」
「フランシスの母親は、フランシスが生まれてから体の調子が悪くてね、寝たきりのような状態だったんだよ、父親にとっては、フランシスが生まれたことでアリスが亡くなったって思っているんだろうね……」
「その子のせいではない」と、口から出懸かるが、それでもそれは他人の意見だ。当の本人がどれだけ妻を愛していたのか、それとも執着していたのか解らないし、その父親の心の有り様は、本人だけにしかわからないのだ。「その子のせいではない」のは、皆が解っていることなのだろうし。
「フランシスがまだ目覚める前はよかったのさ、でも、実際に目覚めてみると、言葉は理解できないし、話しもできない。それに、あのろくでなしはもう、日がな一日を酒を飲んで生活していたからね」
そんな話しを聞いて、如何ともしがたい気持ちに襲われた。多分、その様子を見てるしかない目の前の女性も、ずーっとそんな気持ちを持ってフランシスを見ていたのだろう。
しかし、さて、どうしたものかと考えてみるのだが、解決する方法は全く思い浮かばないし、今の自分は他人事に尽力している暇はないのだ。
と、その時、金属が何かにぶつかるような大きな音が、路地の奥から聞こえてきた。奥を覗くと、どこからともなく、不明瞭な男の怒鳴り声が聞こえてきた。そして、パタパタと不規則な足音が聞こえてきたかと思うと、奥の路地から子供が走って来たのだ。
その子は、右足を引きずっていた。だから、子供が走り回るような音ではなく、不規則な足音になっている。そして、その子の顔を見て、激しい怒りを感じた。その子の顔の左目は、腫れ上がって塞がっていた。口元にも大きな痣が見える。どこまで酷く殴れば、こんなことになるのか、自分は知らない。知らないと言うことは、自分では怖気てしまうほど殴っていると言うことだ。
子供を追いかけて、奥から男が酒の入っている壷を振り上げて追いかけて来る。が、予想以上に酔っているのだろう、足取りがおぼつかない。そのくせ、その口から出て来る言葉は、親が子供に向けて発せられるような言葉ではない。と言うか、人に向かって言う言葉ではなかった。
「奥さん、離れていて下さい」
子供が近づいてくるが、こちらに目も向けない。そして、脇をすり抜けて、子供が背中を見せた所を振り向き様に剣を抜いて、子供の背中を袈裟切りにすした。
子供は膝をついて、四つん這いになってしまった。辺りは、この世界から音が無くなってしまったように静まり返る。が、先ほど、フランシスのことを話していた女性が、悲鳴を上げて両手で顔を覆った。それが合図のように、音が溢れ出した。他で聞こえる悲鳴やざわめきだ。
「なっ、何しやがるんだ!!」
路地の奥で、ひときわ大きな怒声を発しながら男がやって来る。
「お前が、『死んでしまえ』と言うから、私が切って殺してやった」
「なっ!」
「親が子供に向ける言葉ではない。それでもそう言うには、それなりの理由があるのだろう。だから、私が成敗した」
「なっ、なっ、何を勝手な!」
「どうした?」
殴りかかって来るが、酔っているので目標が定まらないのか、拳が泳いでいる。
「何を勝手なことしやがるんだ」
「どうしてだ、『穀潰し』とも『無駄メシ食らい』とも言っていたな」
子供をそっと抱き上げると、ぐったりしている。刃は子供に届かない所で振り下ろしたし、子供には怪我は無いはずだ。視線を再び男に移すと、その顔には浮かんでいるだろう表情は無く、ふらふらとして、壁に寄りかかった。
「この死体は貰っていくぞ」
「……ふん、好きにしやがれ……」
驚いたことに、壁に寄りかかったと思うと、ズルズルと座り込んでしまい、また酒を口にする。この男からは、少しでも子供を心配する言葉も表情も見られなかった。
「奥さん……」
心配して、数歩前に出た女性に向き直る。自分を恐ろしいものでも見るような怯えた顔をしていたが、それでも抱き上げたこのフランシスという少年が心配なのか、逃げるような素振りも見せない。
「この子は、大丈夫だよ……」
小さな声で、その女性に声をかけると、はっとしたように走り寄ってフランシスの状態を確認しはじまた。
「怪我をさせてはいないから、大丈夫だ」
「あんた、この子をどうする気だい」
「そうだなぁ〜……。もし万一、あそこの男が後悔して酒を止めるのであれば、教えてやって欲しいことがあるんだ」
「?」
「もし、本当にこの子を返して欲しいのなら、酒を止めて、ちゃんと働くのなら、奥さんが教えてやって欲しい」
「あの男が……」
疑いの顔で男を見つめる。男はまだ、壁を背に座り込んでいた。
「私の名前はミケーレ……ミケーレ・ノルドランデル、この子は私が村長をしているテグネールで預かると……」