鼻を明かす
飛び出して行ったディックさんを、私たちは椅子越しに見つめていた。というか、明け離れたドアを見つめていた。勿論、ディックさんに何が起こったのか解らないのもあるが、自分たちはそのアクションにどう対応して良いのか解らずい戸惑うばかりであった。
どうしたんだろ? どうしたらいいんだろ? そんなことを思っているが、それをここにいる4人の誰も答えを持っていないのは知っている。だから、お互いに顔を見つめ合うだけしか出来ない。
「あのおじさん、どこへ行っちゃったの? ねぇ、帰っていいの?」
「まだ許可をもらっていないから、帰ったらダメだよね」
「僕、お尻が痛くなっちゃったよ」
「座布団を使ったら?」
「ああ、そうだね」
ヨエルは椅子から立ち上がると、ディックさんが座っていた方へ回り込むと、机にあった座布団を持って来た。
「あれ、これ……本当にお尻が痛くない!」
今ですか? 今それを言いますかヨエルくん。
「エルナ、これ学校に持って行っていい?」
「学校の椅子も固いの?」
「そうなんだよ。勉強は嫌じゃないんだけど、座っているのが嫌」
なるほど、学校では苦行を強いて、忍耐力を育んでいるのだな。でも、ダニエルなんかは失敗だよね。
「ギルド長の反応は、成功なの?」
「う〜ん、何か思いついたみたいだけど……」
「なんか面倒になったら嫌だな」
「エルナは面倒臭がりだね」
アーベルは笑ったが、それは重要なことだろうと思う。まだまだやりたいことはある。最大の野望は温泉を作ること。こんな細かなことに煩わされるのは迷惑だ。それに、私自身は商売には才能が全く無い!
「でも、ここで時間を取られると、村の人たちに頼まれた買い物が間に合わないってことはないよね」
「それはディックさんがいつ帰ってくるかによるなか」
そうだよね……。どこ行ったのかカウンターにいたお姉さんは知っているのかな? ディックさんがいなくなっちゃったから、また後で……なんて通用しないよね。
後ろでバタンと戸が閉まった。振り返ると、ディックさんと見知らぬ男の人がいた。誰を呼んできたんだ?
ディックさんの右隣にいる人は年配の男性で、服装は小綺麗だが、それほど高そうな服は着ていないので、貴族ではないようだ。客商売をしている人だろうと思ったのは顔が穏やかだから……。そして左隣にいる男性は、頭がお寒いことになっているが、昔は格好良かったのではないかと思う。と、言っておこう。それ以外の特徴は、真っ白いエプロンをしていることだ。この世界で、真っ白い布は珍しい。まぁ、料理人と言ったところだろう。
「すまない、待たせたな」
待たせたも何も、待ったせられていたとは思わなかったよ。その人たちを呼びに行ったと理解はできるが、これから何が起こるのか想像は無理だよね。パン屋と料理人なのかな? とも推測できるけど。「パンの作り方を教えろ」なら話しは簡単なんだけど、それで済めばいいな……なんて上手くいくのか?
「嬢ちゃん、このパンの作り方を金貨1枚で買う」
アーベルは息を飲んだ。レギンは、いぶかしげにディックさんを見つめる。ヨエルは……。
「金貨? 金貨1枚?」
その連呼でした。
今、話題の金貨1枚って、どれくらいの価値なのだろうか? 勿論、貨幣の中で2番目に高価なものだと解っている。一番小さな小銅貨が1円だとすると、100万円なのも解っている。でも、私の知っている世界でも、100万円の価値は、国によって全く異なる。
「アーベル、金貨1枚って凄いの?」
「ええ〜っと……金貨1枚は凄いけど……だけど……」
「?」
『だけど』がつく凄いってなんなの? 凄い、だけど凄くない?
「じゃぁ、金貨1枚と大銀貨30枚だ!」
おお! 銀貨の上に大銀貨なるものがあるのか? ますます私の頭では混乱するばかりだ。今、ここで正確な貨幣価値を知っているアーベルが頼りだ。
「買うって、どう言うことですか?」
「パンの作り方、その生産と使用料だ」
「それを誰かに譲渡する権利は無いんですね」
「ああ、その権利については、2割を納めることにしてもいい」
「金貨1枚と大銀貨30枚か……」
交渉はアーベルに丸投げなので、ディックさんとアーベルは額をつきあわせて話し合っている。しかし、金貨の価値が気になる。ヨエルは解るのかな?
「ねぇ、ヨエル。金貨1枚って凄いの?」
「凄いよ! だって、ヒツジ7頭を買えるよ」
「そりゃぁ、凄い!」
なんとなく解った。ヒツジが7頭くらいなら、私の世界では安いヒツジとして考えると100万ちょっとくらいだろう。まぁ、アーベルが『だけど』をつけた訳はわかった。テグネールの村人達が私のパンを毎日食べるたびに、私に小銅貨2枚が入ってくるとしたら、2年で100万くらいは収入が得られる。それを計算してアーベルは金貨1枚で妥協して良いのか迷っているんだと思う。
えっ? 私は面倒なので、金貨1枚でもいいよ。と思っているのだ。
「じゃあ、金貨1枚と大銀貨50枚だ!」
おいおい、それって、150万以上になっているんでしょ? もう勘弁してやってくださいよ、アーベルさん。
「アーベル、もういいよ」
「そう? エルナがそう言うなら……」
思わぬ程の潔さで引き下がる。あれ? もういいんですか?
聞いといて何だが、アーベルが引き下がったのは、十分な金額や権利だったからだろう。しかし、まさか私のパンが150万もの金額で売れようとは、誰が想像しえたのだろうか。
「よし、契約書を持って来る」
「待ってください!」
私はディックさんを引きとめる。ちょっと、そんな簡単な話しじゃないのを今更思い出す。ごめんなさい!
「その人は、パンを作る人ですか?」
「ああ、家の料理長バルブロと、この町のパン屋のヘヌリだ」
「料理長まで……」
パン屋ならわかる。でも、ディックさんの家の料理長までとは、何だか理由がありそうだ。パンを作る権利まで買うし、値段交渉はしていたけど、あまり金銭に頓着しているとも思えなかった。だって、金貨1枚と大銀貨30枚が。大銀貨50枚に一気に跳ね上がった。
「何だか、特別な理由があるの?」
「嬢ちゃん……」
ディックさんは言い渋った。が、ディックさんところの料理長さんは、代わりに語った。
「旦那様、ここは恥を忍んでお話した方がよろしいと思います」
「しかし、バルブロ……」
「もうこれは、私のプライドの問題ではないのです。このままでは、旦那様のみならず、領主様までもが……」
バルブロさんは、エプロンの裾を強く握りしめた。何だか、プライドを傷つけられたようだ。それを取り戻すための私のパンのようだ。
「エルナお嬢様」
やめて! 私が29歳の大人でも『お嬢様』はやめて!
「何があったの?」
「私が説明しよう。今、王都や領主様の所から、役人やら騎士が来ているのは知っているな」
「はい……泥棒を追っているって……」
「まぁ、そんな話しだ。王都から1人、マルムロース男爵が派遣されてきた。そのマルムロース男爵は、我が家の客間に泊まっているんだが、これがほんとーに、『む』か『つく』男爵様でな、家の最高の料理人の出した料理を不味いと言い、自分の料理人を連れて来てうちの厨房を占領しやがった」
ああ、そりゃないや。厨房は料理人にとって神聖な場所だ。他人に使われるなんて許す料理人がいるはずがない。ましてや占領なんて……。屈辱でそりゃぁ大変だっただろう。
「しまいには、平民の料理人なぞこんなものだと言いやがって! ふざけんな、うちのバルブロは、王宮勤めをしていて俺が引き抜いたんだぞ!!」
だんだんと、口が悪くなっているディックさんは、本当に悔しそうだった。
「ディックさんは、バルブロさんの料理は好きですか?」
私の思いも寄らぬ質問に、罵詈雑言を吐こうとしていたのだろう、大きく息を吸ったが、止まってしまった。
「何を言ってるんだ、お嬢ちゃんは」
「バルブロさんの料理は好きですか?」
「あっ、当たり前じゃないか!」
そっか、まぁ、貴族に自分ところの料理人がバカにされたとて、『む』か『つく』男爵様などと暴言を吐くわけがない。『そうか、そりゃ災難だったな』で終わりだ。でも、この様子だと、料理長がバカにされたのが許せないのだろう。
「えーっと、それでどうやって、貴族サマの鼻を明かすの?」
「バルブロは今、騎士やその従者たちに食事の提供をしている」
「ああ、そこで、その男爵よりいいパンを出して、鼻を明かしてやるつもりですか?」
「それだ!」
ディックさんはにやりと悪い顔をした。
まぁ、身分制度のあったどの時代も、どこの地域でも下のものがただ耐え忍んでいたかと言うと、そんなことはない。裏で舌を出して馬鹿にしていた。まぁ、今もそうだよね。
「……問題は、そのお貴族サマに変に恨まれたりしませんか?」
アーベルがそう尋ねる。そうだ! そんなことして、嫌がらせを受けることもあるんだ。どうなのよ、そこんとこ!
「それは、私がうまくやろう」
突然の頼もしいセリフは、私の真後ろから聞こえた。振り返る私には、開け放たれた向こうから差し込む、眩しい光のせいか、『神、光臨!』に見えなくもなくなくない。
<エルナ 心のメモ>
・オリアンにマルムロース男爵といういけ好かな役人がきている
・ディックさんは、ことのほかお怒りです
・ディックギルド長兼町長の家の料理人バルブロさんか、昔、王宮の厨房で働いていた
・オリアンのパン屋はヘヌリさんと言うらしい