私への贈り物 2
その正体が知れたのは、すぐ後だった。それも、多分私以外にはそれが何であるのか分からなかったと思う。そう、それは間違いなく私への『アン・キャド』だった。
「エルナ危ない、後ろに下がれ!」
バルタサール様は、私を無理やり後ろに押しやった。足元が不安定なのに、そんな力いっぱい押されては転げる。まるで、『金色夜叉』のお宮のように、よよっと……えっ? お宮って誰って?
ゴホン、私はよろよろとよろけて、崩れ落ちた。バルタサール様も視界の隅でそれが見えたのか、慌てて、私の腕をとり、引っ張ってくれた。視界の隅で、ニルスが一歩踏み出すところが見えた。
「ダメ! それを殺してはダメ!!」
私はただそれだけを叫んだ。『痛い』でも『押さないでよ』でもなかった。
でも、私にとっては自分が痛いということよりもっと大事なことがあるのだ。
「お、落ち着け。魔獣を殺すなだと、何を言うんだ」
バルタサール様だけではなく、ニルスもレギンもアーベルも慌てている。当然、私のことを頭がおかしくなったと皆思っているだろう。《禁忌の森》にいるのはすべて魔獣だ。
でも、ダメなのだ。それは何を我慢しなくても、これだけは我慢できない。
「みんな動かないで、その子は魔獣じゃないわ」
バルタサール様の前に出ると、ガサゴソと転<まろ>びながらやってくるそれは、一生懸命短い足を動かして、お尻をフリフリ私を目指してやってきた。
当然、私は地面に膝をついてそれを抱き上げた。
幼い私に抱き上げられて、ぺろぺろと顔を舐めているその子は、黒い体に足先と顎から頬にかけて白く、胸にもV字の白い毛がある。極め付けは眉に見える白い分だ。
三角の耳にくるりと巻いた尻尾……それは私のいた世界の日本犬だった。
「エ、エルナ、大丈夫なのか?!」
「うう〜……」
「エルナ?!」
私は、この時はじめて心から満たされていた。
もちろん、犬好きではあるのだが、それよりも私の手の中にあるのは私の世界で見知ったものだったからだ。今まで息を詰めていたのだとこの時に気がついた。この懐かしい生き物を抱きしめた瞬間、肺の深い所に溜まっていたであろう、重苦しい空気を吐き出すことができたのだ。
それと同時に、心からの安堵感を覚えた。
「エルナ、それがアン・キャドなのか?」
マティアス様の言葉に、私は無言で何度も頷いた。自分が言葉で伝えることができないのに気がついた。私は涙を流していたからだ。
まぁ、滂沱の涙と言うほどではないので、袖で涙を拭って立ち上がった。
自分が泣いていたのを知られるのは、とても恥ずかしいもの。
「エルナ……それ、見せて」
「ん……」
「……」
「可愛いでしょ?」
ニルスは、子犬をくるくると回して色々と調べているようだった。当のワンコは、『何々、遊ぶの?』みたいに思っているのか、激しく尻尾を振って自分を捕まえているニルスの手に甘噛みをしている。
そんな姿を見て、思わず微笑んでしまうのだが、ニルスの表情は険しい。
「どうしたの……その子に何か……」
「……」
ニルスは黙って、私にワンコを押し付けた。
「……犬に見える」
うん、猫には見えないよね。
この世界はでかいポメラニアンのグンとボーしか見てないけど、これは、この世界でも犬だと思う。
「でも……ただの犬には思えない」
「では、魔獣ではないのだな」
「……」
バルタサール様は魔獣ではないと言うことで、安心したように息を吐きだし、剣を鞘に収めた。でも、ニルスはバルタサール様の問いにしばらく考え込んでしまった。
私も魔獣はしっかりと確認したわけではないし、アーベルの言う言葉を少し覚えているだけだ。確か、魔獣は人を襲うと言っていた。だから、アーベルのご先祖様のアレクシスは貴族位を王に返して、魔獣をこの森に追い詰めて、国を魔獣から守る最前線の村を作った。
魔獣のラパンは、人の足だけ食べるとか言うことを思い出してたけど、ちゃんと何を食べているのかはまだ解っていないと聞いた。人を捕食すると言うわりに、ここ数十年は魔獣によって殺された人間は、この村には存在しないらしい。
でも、私がアーベルの話を聞いて、一つ記憶に強く残っていることがあった。
それは、魔獣には雌雄がないと言うことだった。
アーベルの話には、『〜らしい』ということばかりで、誰も魔獣について詳しくは知らないようだった。アーベルも『魔獣はよく解からないことが多い』と言っていたし。
でも、たった一つだけはしっかりと解っていたし、魔獣が他の獣と違うという明確な分類方法だった。
「そうだ! 魔獣は雌雄が無いって言ってたもんね」
渡されたワンコを持ち上げてみる。
が、視界が突然真っ暗になって、私のワンコの性別は確認できなかった。
「コラ! 慎みを持て」
ふむ、目の前が真っ暗になったのは、バルタサール様が目隠しをしているからだ。しかし、ワンコの性別を確認するのに、お腹を覗き込むのははしたないことらしい。
「で、この子は女の子なの? それとも男の子?」
「は? ……ああ、メスだ」
なるほど、バルタサール様は人間以外に、人間に使う言葉は使わないのだと、どうでも良いことに気がつく。だが、私は違う。
「女の子なのね」
私がワンコを下ろすと、バルタサール様の目隠しも取れた。
私=女が動物の性別を調べることが『はしたない』けど、男がメスの性別を確認するのは、セクハラになるのではないか?
「で、それがそなたのアン・キャドなのだな」
バルタサール様を見上げると、確認するように私に問いかけた。私は、抱かれているワンコを見つめる。
この子は、私の世界にいる日本犬の特徴を兼ね備えている。尚且つ、これだけ人がいるのに、この子は私を目指してちょこちょことやってきたのだ。
「ええ〜っと、こんな感じの犬はいないんですか?」
「いないな……マティアスはどうだ?」
「私も知りません、まず、このような体毛が短い犬がいるとは、聞いたこともない」
ふむ、ではこの子は間違いなく私の世界から来た子だろう。
ここで問題です!
アルヴィース・ボエルは、ハーブの知識があったので、ハーブをこの世界に広めた。では、私はこのワンコで何をしろと?
私は獣医でも、トリマーでもなければ、訓練士でもない。そんな知識は皆無で、編集の仕事でもそのようなことを調べたことも取材をしたこともない。ただの犬好きで、長年犬が生活に欠かせないと言うことだけだ。
「どうした、そのような顔をして」
「……アン・ギャドって何かなって……」
「?」
困惑しているバルタサール様、もちろん、私の方が困惑している。そして、周囲を見回すと、マティアス様もレギンもアーベルも困った顔をしていた。
それでも、アーベルの瞳の奥でキラリと光っている『好奇心』を見落とすことはない。
そんな中、ニルスだけが違う方を見つめていた。
「どうしたの?」
「……ちょっと見てくる」
ええ? という言葉を発する時間もなく、ニルスはワンコがやってきた方角へと進んでいった。
「一人で大丈夫か?」
「……」
バルタサール様……それを私に聞かれても……でも、レギンとアーベルが何も言わないのだから、心配無用なのかもしれないと思った。
「ねーねー、それ、エルナの世界の犬?」
やっぱり、最初に食いついたのはアーベルだった。
「うん……それも私の国の犬」
「国の……犬?」
「私の国は、島国で海に囲まれているの。だから固有の生き物が多くいるんだよ」
「島国だとそうなるの?」
「そうだよ、だって他の国の犬の血が混じることはないし、それにこの種類の犬は、私の国に7000年も前から狩りをする為にいたんだよ」
「なっ、7000年も前?」
「そ、それは何か記録が残っているのか?」
次に食いついてきたのは、マティアス様だった。
「ううん、その時代には記録に残せるような羊皮紙や紙なんかもなかったし、まず文字がなかったから……」
「文字が無い?」
「ええーと……テグネールだって、文字の読み書きができなくても生活できるでしょ? その頃の村は、血族の集団でもっと少人数だったんだから、伝える手段は口頭で十分だったんだよ」
「だから、文字はいらないと?」
「必要なかったんだよ。そもそも、その時代の人々は、動物を狩って、森から木の実を採集して、川や海で魚を捕る生活をしていたから、移動していたし……」
「……日々の糧を得ることが、最も重要なこと……か……」
文字が必要となるには、もっと世界が組織的になって複雑化しないといらないものだと思う。それに、縄文時代の人々の概念として、統治者なんて理解できなかったと思う。
マティアス様は色々聞きたそうだったが、それを制したのは戻ってきたニルスだった。
「何、それ?」
ニルスは、私に押し付けたのは思いもかけないモノだった。
「低木に絡まって鳴いていた」
「うわ〜」
「ちなみにオス」
私の腕の中に加わったのは、震えている同じ色の犬だった。嬉しいけど、この体では2匹は重い……。
ニルス曰く、何か鳴いているような声が聞こえたので探したら、低木の枝に足を取られていたらしい。
もちろん、私が確認するまでもなく、ニルスは念のためと周囲をもっと探してくれたようだ。
《禁忌の森》で、私のアン・ギャドが見つかった。
それは、黒色の日本犬の番<つがい>だった。
「真上過ぎに戻れてよかったね」
「そうだな」
私はバルタサール様に再び抱き上げられて帰路についた。
道中は、アーベルが2匹を抱いてくれていて、私は時々振り返っては、2匹の様子を伺っていた。アーベルは、暴れる女の子に文句をいいつつ、おとなしく抱かれている男の子を見習えと言っていた。
私への贈り物は、私の大好きな犬だった。
それはそれでとても嬉しかったし、困るわけではない。が、マティアス様が言うアン・キャドは、アルヴィース様がこの国で何かをするために役立つ物だと言う印象を受けたていた。もちろん、この子達はとっても役に立つよ、私の精神安定剤として。
でも、このワンコたちがこの国に何の影響を与えるのだろうか?
安らぎ? 癒し?
それならわかるが、このテグネール村を見ているかぎり、そんな殺伐とした世界ではないと思うのだ。
ともあれ、私たち一行は来た道を進み、真上過ぎには村に戻っていた。道中はいたって平穏で、結局、私はまた魔獣Nを見るい出会うチャンスは訪れなかった。
「バルタサール様は、他のアルヴィース様のことを調べる方法を知っている?」
「そうだな……確か、学校の図書館にはそんな書物があったな……だが、あれにはその様なことは書かれていなかった」
まさか、バルタサール様が学校の図書館を利用していたことに驚き、そんなマイナーそうな本の存在を知っているのにさらに驚いた。
が、いつものごとく、目を細められて言われた。
「そなた……今、失礼なことを思ったな……」
「しっ、失礼なことって?」
「私が本を読むのか? とか、そんなことだ」
本当に心を読んで切るのではないことに、ちょっと安心した。だが、当たらずも遠からずだ。
「アルヴィース様の本って、誰でも読むの? 私の印象では、あまりみんなが読みたがるような本には思えないけど……」
「……まぁ、そうだな」
それでも、何故かバルタサール様はその存在を知っていて、それを間違いなく読んでいるのだ。そして、その動機はどうも語りたくないようだった。
だって、私が思っていることが分かっているなら、その理由に意味があったなら……意味が無くても話しの流れから、そのことに言及しないのは不自然だ。
「じゃぁ、どんなことが書かれていたの?」
「そうだな……どこで生まれて、どんな功績を残したとか……。一言で言うならば、アルヴィース様の功績だな」
「……アルヴィース様は何人いるの?」
「7人」
おお、結構いなる。と思っていたところ、マティアス様はまだ存在していると言うのだ。
「昔は、その存在が知られることが無かった方もいると言われている。アルヴィース様の存在そのものが公にされていなかったこともあるが、何よりもその特異性に目をつけた者が、その存在を秘匿したという話しもある」
「この世界にやってくるアルヴィース様が、賢者様って感じになったのはいつ頃なの?」
「それは最初からだ。初代アルヴィース様が、この世界にはアルヴィース様と同じ存在が、これから先も現れるとおっしゃっていたと記録が残っている。王家は、その存在がいかに貴重で、この国のためになるかは、最初から知っていた。それでも、アルヴィース様がどのような形でやってくるのか解らなかったのだ」
「それは、初代のアルヴィース様は言わなかったの?」
「そうだと……思う……。それについて、記載を見た記憶がないな」
マティアス様の記憶にないと言うことは、そんな記載が無かったのだろう。
「初代のアルヴィース様はどんな人だったの?」
「初代は800年以上前の方だ、それほど詳しい記載はなかったと思う」
「ふ〜ん……名前は?」
「無い」
「へっ?」
「初代だけは、ただアルヴィース様と呼ばれている」
アルヴィースとは、その人の名前か何かだったのだろうか? 私の乏しい他言語の知識では、何語なのかもわからない。
それでも、アルヴィース様を知ろうと思えば、記載はどこかに残っているようだ。
「他のアルヴィース様について調べたいのだけど、マティアス様は他に何か手がかりを知っていますか?」
「……多分、私達が通っていた学校の図書館が一番多くの書物を保持している」
「学校の図書館の書物で、アルヴィース様のことは大体覚えているんでしょ?」
「そうだな」
さすが、マティアス様ってところだ。
「が……王宮の公文書館には、もっと資料があるはずだ」
「公文書館?」
なんと、この世界にそんなものがあるとは……私は自分の世界でよく利用したのを思い出した。余りにも通いすぎて、最寄駅に降りると、ついその方向に足が向いてしまうほど……。
「しかし、そこは限られた者しか近付くとこもできない」
「まぁ、そうだよね」
でも、もし私がアルヴィース様だと証し立てられたら、そこに入ることはできないだろうか? でないと、私はこの世界で何をしてよいのやら皆目検討がつかないのだ。否、その前のこの国のことを知らないといけないけどね。
そんな会話をしているうちに、バルタサール様が壁の穴から先に出たレギンに、私を受け渡す。
《禁忌の森》を出て、皆が一様に緊張をとくのが解った。
「とにかく、腹が減った」
「バルタサール様はそればっかりね」
「仕方あるまい、減るものは減るのだ」
そういえば、この子たちには何を食べさせればいいのかしら?