昨日の残り物
朝、起き上がって最初に口にした言葉。
「アン・キャドって、ア・ギフトのことじゃないの?」
だった。
アン・キャドとはUn cadeauで、これはフランス語だ。英訳するとA Giftになるのだ。
泣きながら、必要に迫られてフランス語の辞書を片手にシャンソンの歌詞を翻訳したことが、こんな所で役に立つとは、何が幸いするか解らないものだ。ちなみに、大学での第二言語として選択したのはドイツ語だった。
この国の言葉には、私の世界の言葉が色々と混じっている。それは、当初から感じていたことだが、それはアルヴィース様が各国からやって来た結果だと思う。
一つ驚いたのは、穀類の名前のほとんどが日本語だということだ。大麦、小麦、米、粟<あわ>、黍<きび>などなど。当初は、それぞれのアルヴィース様が馴染んだ言語で名前を呼んでいたのが定着したものだと思っていたが、もしかしたら、これは『アン・キャド』、すなわちその贈り物としてアルヴィース様がやってきた時に一緒に来たものだという可能性も出てきた。
まぁ、きゅうりと言われて思い浮かぶ野菜が、ここでは『カハ』とか呼ばれていて、ピクルスの原料であるガーキンという野菜が『きゅうり』と呼ばれているちょっとした混乱はあるが……。
そんなことを考えながら、エイナと一緒に台所に向かった。
「昨日のチーズ、おいしかったね」
屈託無い笑顔で、エイナが話題にしたのは、昨晩の食事のことだった。
「それに、凄く楽しかったね」
「そうだね〜」
「いろんなものを、好きに選んでいいって、楽しいね」
エイナの何気ない一言に、ハッとした。
この世界はある意味豊かではない。食事に事欠くこともあるし、ミケーレさんの家のように、ある程度の富がある平民と、そうでは無い平民がいる。旦那さんが病気や怪我で働けない家は、カロラさんやリータさんの家の例があるくらい、とても不安定なものなのだ。
そんな世界で、選べるということは、とても貴重なことなのだと再度認識した。前に、自分でキムさんに、洋服を選べるのは嬉しいことでしょ? と問うたくせに、改めてエイナの口から聞かされて、選べるということは贅沢なことなのだと。
選べると言っても、あのラード湯に、何の肉を入れるかなんて選択肢は嬉しくはないけどね。
「エルナ、朝はどんなご飯にするの?」
「パンの上に、昨日の残ったチーズを置いて、もう一度焼くんだよ」
「そうしたら、またあのチーズになるの?」
「うん、とろとろのチーズだよ」
「ふふふ」
ふふふって、嬉しそうに笑うエイナが可愛すぎる。
「エイナは、今日は何をするの?」
「あのね、ブリッドのところでお祭りで売るお人形を作るの手伝うの。ブリッドがね、私にあの犬の人形をくれるって!」
「そうか、あの犬はかわいいよね」
「あのね、エイナにも作り方を教えてくれるって言うの」
「」
そんなことを話しながら、台所……この家は、外から入るとだだっ広い空間だから、正確にはどこから台所と呼べるのかわからないが、炉が奥にあるので、とりあえずそこらへんを台所と思っている。
その炉の前では、バルロブさんとラーシュさん、エーミルくんが揃っていて、昨夜焼いたパンについてあれこれと論じていた。
「おはよ〜」
「おはようございます、エイナさん、エルナさん」
「おはようございます」
「おはよ〜」
バルロブさん、ラーシュさん、エーミルくんが挨拶を返した。
「あのね、昨日のチーズをパンに乗っけて焼くんだって!」
「パンを焼くのですか?」
「今から、パン種を作るのですか?」
バルロブさんの後に、エーミルくんの悲痛な声がした。
パンを焼くのは料理人見習いのエーミルくんの役目だ。もちろん、エーミルくんが言ったように、最初からパンを焼くわけではない。
私たちの世界では、出来ている食パンを買ってきてトーストにするのは、いわばデフォルトだ。が、この世界には、一度焼いたパンをもう一度焼くと言う発想が無いのだ。
「もちろん、パンを最初から焼くわけじゃないよ。ラーシュさん、平たい鉄板はどこ?」
「焼いたパンをもう一度焼くと言うことですか?」
「そうよ、昨日のパンで切ってないものがあるでしょ?」
私の問いかけに、エーミルくんが昨夜の残りの食パンを持ってきた。
この世界で、この四角いパンをどう呼ぼうかまだ決めてい無い。今、パンと呼んでいるのは母国語をラテン語を語源とする世界の呼び名だ。古ゲルマン語から派生している言語を使っている国では、ブレッド(bread)、ブラウエン(Brauen)と呼ばれている。
どういった理由だかわから無いが、この世界でもパン(Pao)と呼ばれている。日本でも同じだが、これは江戸時代にポルトガルから入った言葉だからだ。
さらに食パンと言うのは、ややこしい話しなのだ。明治にパンを売っているお店が、同じパンを『パン』と『食パン』と言う名前で売っていたのだ。その上、『パン』の方が安い。
実は、この『パン』は、古くなったパンのことで、デッサンに使う消しゴムの代わりになっており、木炭の消しゴムとして売られていたのだ。これは、目で見る日本の歴史シリーズ13巻『戦国時代』で、カステラやカルタと言った今も残っているポルトガル語について、ちょっとしたコラムとして載せた時に調べたのだ。
と言うことで、この食パンは苦肉の策で生まれた日本語なのだ。それをこの世界で広めるのはどうかと……。さらに、英語でもwhite breadと言う……これでは他のパンとの明確な区別にはならないときた。なんだよ、白いパンって……。
とりあえず、エーミルくんが持ってきたパンをスライスして、さらに四分割にした。本当は、フランスパンまたはバタールと呼ばれるようなパンがベストなのだが。この世界ではまだ誕生してない。でも、ブルスケッタをやろうと思ったのだ。
アーベルの作ったバターに、アオユ(ニンニク)のすりおろしたものとパセリのみじん切りを混ぜ、ガーリックバターは作ってある。そして、トマトソースの作り置きもある。この世界のトマトは、熱を入れないと酸っぱいのだ。それも結構煮込まないと酸っぱい。だから、生のトマトを使うわけにはいかない。
えっ? チーズをのせないのかって。さらにその上にのせるつもりだ。そして、毎朝作る卵焼きは、卵と牛乳を攪拌して焼いている途中でチーズを入れて巻くオムレツだ。
つでに、昨夜使った残り物の野菜たちを細かく切って、輪切りに切ったウィンナーもまとめて炒める。それもオムレツに投入する。
そんな料理の献立と作り方をバルロブさん、ラーシュさん、エーミルくんに説明をした。途中で、味見をしてもらって、ブルスケッタの素晴らしさを知ってもらった。
あったかなパンは、出来立てのパンと同じくらい美味しいのだ。
「これは……いろいろな物をのせることができますね」
「そうね、マティアス様みたいに食べることに物ぐさな人にはいいかも」
ラーシュさんもそのことに気づいたのだろ。すぐに上にのせるものを変えることによって、飽きさせない料理になると気がついたようだ。その証拠に、ブルスケッタを見た瞬間に、目がキラリと光りましたよ。
「これって、パンで挟まないんですか? サンドウィッチでしたっけ、あのパンに挟む料理のように」
「う〜ん……パンはあたたかい方が美味しいけど、馬に乗りながら食べたりする時は、パンが柔らかい方が中の具がこぼれないように挟むめるでしょ? これはパンをもう一度焼くから、硬くなるからパンの間から中身がこぼれちゃうんじゃないかな」
「ああ……挟んでもあまり意味がないですね」
「バルタサール様には、サンドウィッチやパンに切れ目を入れてウィンナーを挟む方がいいかもしれないね」
ラーシュさんはマティアス様の屋敷で働いている料理人だし、エーミルくんはバルタサール様に美味しいものを食べさせたいと熱望している為、ここにいる料理人見習いだ。そうなると、やはりご主人の趣向や生活習慣によって料理の興味も変わってくる。
それに比べて、バルロブさんは全く違っていた。
「これは……何か料理に合わせるのは難しいような気がします」
と、言うことだった。
定番では、パスタ料理に添えられるものだが、肉や魚料理にこのパンは難しいのだ。この世界でもそうだが、肉や魚料理のパンはその料理のソースをつけて食べるものだけに、このパンではすでに味がついてしまっているのだ。スープ料理では、なおさら難しい。
「これは、小腹が空いた時とか、夜食とかに出すと考えた方がいいかもしれないですね。スープ添えたりするとか」
「なるほど……軽食と言うわけですか……」
「あとは、朝食でその他の料理がパターン化している場合にも、目先を変えるのにいいんじゃないかと……」
「それでは、メインの料理が塩味のようなシンプルな料理でも生きますね」
そう、塩・胡椒で味付けたような簡単なメイン料理の添え物でも、ブルスケッタは威力を発揮してくれる。それと、もう一つ、日本で言うところのバイキングなんかには並べてもいいのではないかと思うのだ。
が、それはここではどんな言葉なのか解らないし、はたして立食式の宴があるのかも不明なので、あえてそれには言及しなかった。
パンにはまだまだ色々な料理に変化できることを、この3人は気付くのだろうか? テグネールのパン屋さんであるマッツさんには教えてしまったが、窮極のパンである『お惣菜パン』もあるし、パンの生地をそのまま油で揚げる、揚げパンやピロシキ、ドーナッツなどもある。
さてさて、この先が楽しみです。
そんなこんなで、朝から料理教室のようになってしまったが、皆が席に着く頃には料理は卓に並べ終えた。もちろん、とろけるチーズは好評でした。