赤ちゃんの扱い
洗い物が終わり、レギンと柵の点検をした。点検と言うのは、柵をぐるりと歩いて見回るのだ。
レギンん家の敷地はかなり大きかった。その上、見渡すことができない程、敷地内にこう配がある。どうも、ここがヒツジたちのえさ場のようだが、ヒツジはどれくらいいるのかと思ったら、こんな狭い土地では食わせていけない程の大所帯だった。
と言うことは、放牧もありではないか? でも、放牧に必要と思われる『お弁当』の存在を知らなかったので、ちょっと混乱している。周囲を見ても他に牧草があるようには見えない。《禁忌の森》がある方角を北とすると、東側は《禁忌の森》で、南はちょっと大きな道でその向こうは雑木林のような森と、畑のようだった。西は、隣接する家の放牧場になっているようだった。
東側には壁が無いのだが……魔物が侵入しないのだろうか?
「レギン、こっちも《禁忌の森》?」
「ああ。そうだ」
「こっちには壁が無いけど大丈夫?」
「時々、アッフが来るな」
全然、大丈夫じゃないじゃない!
「柵の向こう側に、堀があるから、なかなかここまでは入ってこない」
「そうなの?」
「ラパンやクイネを防いでくれるからな」
「う〜ん……」
ラパンはウサギの魔獣で、クイネは私を襲ったオオカミみたいな魔獣だった。でも、アッフは防げないって言う。アッフがどんな獣か知らないが、堀を飛び越える跳躍力のある魔獣なのだろう。
「大丈夫だ、だんだん壁は増えて行く」
「今も作っているの?」
「あぁ、今は壊れた場所の修理が先だが、ずーっと80年、作り続けている」
「はっ、80年も?」
「祖爺さんが、最初ここへやってきて以来だ」
「どうして、こんな危険な場所に?」
「王の命令だからな」
「……そうか」
王の命令で、この危険な場所に住んでいると言う。王がいることもさることながら、わざわざ魔獣の近くに住まわせるとは、何を考えているのか。この世界は、王政が布かれているのか……。理不尽な身分制度が存在しているのだろうと、ちょっと嫌な気分になる。まぁ、この世界で王族や貴族など面倒なものと、なるべく関わらないように生きていきたい。
しかし、王の命令は絶対ですか。
「一番困るのは、守るためにある柵を壊して脱走するウシだな」
「言い聞かせられたらいいのに」
「ふっ」
ウシの脱走を防ぐのはそんなに難しいことじゃないんだよ。レギンにそう教えたいが、それに必要なモノがこの世界にあるか不明だし、またぞろ、子供らしからぬ発言をするのは、今はまだ控えておこう。
柵は壊れている所はなく、ほぼ見終わる頃、ヒツジ小屋2棟の前で、壁の修理に向かうレギンと分かれた。私はヒツジ小屋で掃除をするアーベルと合流し、掃除や藁を敷き詰める作業を手伝った。
大変だったけど、疲れた都会生活の私には、楽しかった。まぁ、これが毎日になると、楽しいでは済まなくなるんだろうけど。
掃除も寝わらの支度も一段落して頃、掃除をしている最中に、小屋の片隅でパンパンになっている麻袋がいくつも放置されているのに気がついたので、アーベルに聞いてみた。
「アーベル、あれはエサ?」
「ん?」
「あそこに一杯ある麻袋」
「あれは、取り除いた使えないヒツジの毛だよ」
「見てもいい?」
「いいけど、本当にゴミだよ」
そう笑っていたアーベルだけど、私は掃除道具をもとの場所に戻すと、麻袋に顔を突っ込んだ。
臭い! 最初の言葉はこれにつきる。中から出てきたのは、毛玉のようなヒツジの毛だ。
「本当に処分に困るんだ。焼くと臭いし、埋めるにも場所が必要だし」
「いつもはどうしているの?」
「いつもは、こっそり《禁忌の森》に捨ててくる、あそこはいい捨て場なんだ」
村人が恐れる、魔獣が出る《禁忌の森》がゴミ捨て場ですか。やっぱり《禁忌の森》の怖さが曖昧になる。
「暖炉の前にある敷物は、どうやって作っているの?」
「カーペットのこと?」
「そー、カーペット(カーペットって言葉があるんかい!)」
「ヒツジの毛を染色して、紡いで、織るんだよ。解るかな?」
「わかる! じゃあ、ヒツジの毛は、紡いで、カーペットや服になるんだね」
「そうだよ」
「他には?」
「ほか?」
なるほど、だからこれらはゴミなのだと合点がいった。
「これがゴミなら、もらってもいい?」
「どうするつもり?」
「マットを作るの」
「マット?」
この世界の我慢できない1つであった、料理の不味さは改善された。次に我慢ならないのが、ちくちく刺さるモルモットの巣と言うベッドだった。変な虫がいて、かゆくなったりしないのはありがたいけど、そうなると、そのゴワゴワがますます許せない。
このゴミでフェルトを作って敷いたら、緩和されること間違いなしだ。ちょっと、ワクワクする。
明日の計画を考えながら、アーベルと休憩のつもりで家に戻る道を歩いていると、ちょうど門でレギンとニルスに合流した。
レギンが壁を修理していると、現れて手伝ってくれたのだと言う。
じーっと観察されているのは、最初に出会った時と同じだ。居心地が悪いです。
この少年の視線を、いかに搔い潜るか思案しようとした時、道を走ってやっていくダニエルとダーヴィド村長が見えた。ダービッド村長は、荷車を引いていて、その後ろを少女が押していた。家族総出でやってきたようだ。
まぁ、お陰でニルス少年の視線が、そちらに移ってくれたから良しとしよう。
私たちは、村長の『アーダが治せるんだって?』と言う、頓珍漢な質問に、とりあえず落ち着かせるように、冷たい甘い牛乳を与えた。
「なんだこれ、甘い!」
それは、ダニエルから聞いたから。言い方が、親子だからかそっくりだった。
アーベルは、甘い冷たい牛乳を、眼を丸くして見ている少女を紹介してくれた。
「エルナ、ダニエルの姉のブリッドだよ」
「はじめまして、エルナです」
「えっ、あっ……ブリッドです。あの、料理を教えてくれるって……ダニエルが」
「はい、後で一緒に作りましょうね」
急に、外で赤ん坊の鳴き声が聞こえたと思ったら、ダーヴィッド村長さんが、『忘れてた!』と叫んで飛び出していった。まさかとは思いますが、荷台に赤ん坊を乗せてきたんですか? その上、忘れちゃってたの?
「ひどいよ叔父さん、スサンを連れて来たのに忘れてたの?」
「いやぁ、だってダニエルのヤツが、夜は私がスサンにお乳を上げろなんて言うんだから」
「そうしてもらいます!」
「えっ?」
「アーダさんを治すのには、しっかり寝て、ちゃんと食事をしてもらわないと治りません」
「じゃあ、私がお乳を上げるって言うのは……でも、お乳を湿らせたガーゼでは、飲まないんだよ」
ほぉ、そういう方法はあるんだ。まずは、情報収集だ。
「牛乳は、お腹を壊すのでやめてください」
「そうなんだよ、それに、飲んだなって思っても全部吐いちゃう」
「アーダさんの母乳でも、吐いちゃうんですか?」
「そうだね、食が細いのに吐いちゃうし、この子大丈夫かなって……。ブリッドもダニエルも、飲み過ぎるくらい飲んで、多い分だけ吐いて。勿体ないから吐くなって、アーダと笑っていたのに」
あぁ、なるほど、それも母親の休まらない原因かと思い当たる。
「では、まずはアーダさんの具合をもとに戻す方から」
「うん」
「アーダさんが眠いのであれば、いつまででも寝かしてあげてください。食事も三食ちゃんと食べさせてください。これは、規則正しくですよ」
「でも、母さんはスサンのことばかり気にして……」
そう言うブリッドは、私の案に不安を示した。
「なるべくです。だから、寝ている時などは、鳴き声が聞こえないようにしてあげて下さい」
「昼間は仕事場に連れて行っているんだ」
「それは、いいことですね。それと、お乳が張っているようなら、授乳をしてもらってもいいですが、とにかく自分の体調を整えることを考えるように、説得してください」
「解った」
「で、スサンですが、ヤギのお乳をあげてください」
「ヤギの?」
「これはお腹をこわしません。それと、お鍋にお湯を湧かして、陶器に入れたヤギの乳を暖めてください」
「暖めるの? お湯を入れるのではなく?」
「只でさえ、あまり飲まないので、薄めると意味が無いです」
「それもそうね」
「その暖めたヤギのお乳を……」
そんな説明をしている中、ヨエルが飛び込んで来た。
「ヤギのお乳もらってきた!」
「有ったのか、さすがブロルだな」
「それでも大変だったよ、だって、この時期に乳を出すヤギはイクセルん家だけだからね」
アーベルの問いに答えたのは、見知らぬ少年だった。だぶん、この子が噂のブロルだろう。しかし、なんて美少年なのだろう。金髪に、ちょっときつい感じの緑の眼に、すっとした鼻、細い顎。アドニス光臨!
「村端まで行ったのか?」
「そう、端から端まで……」
「ご苦労だったね」
受け取ったヤギの乳を、私は、新たな陶器に少し入れた。一応、生後25日らしいから、120mlを目指して入れてみた。
それからは、実践してみせる。鍋で湯を沸かし、それに陶器を入れ、時々、匙ですくって手に落として温度を確かめる。ちょうど良い頃合いの乳をダーヴィッドさんとブリッドにも体験していただく。
「この温度を覚えてください。赤ちゃんは冷たいものより、暖かい方が良く飲みます」
暖めた乳を、熱湯で煮沸消毒した皮の水筒に入れた。普通は飲み口から入れるのが普通なのだが、レギンの許しを得て、一部を切ってそこから入れた。そして、だっこされているぐずぐずのスサンの口に、飲み口を与える。最初は口を開ける気配がしなかったが、飲み口で、下唇をトントンを当ててやると、口を開けた。水筒の飲み口は、とても経口が広いので、少しすつ傾けねばならないのだけど、ダーヴィッド村長は器用なので、どうにかこうにか飲ませることが出来た。
「少し飲んだが、吐いてしまわないだろうか」
「少し様子を見よう」
(あれ?)
「でも、これなら飲ませやすいね、お父さん」
「ガーゼに湿らせたものを吸わすのは、只でさえ食が細いのからなかなか受け付けてくれなくてね」
(あれ? トントンは?)
「叔父さんがよければ、俺たちでも預かるよ」
「レギン、それは悪いよ」
「でも、叔母さんが大変な時に」
「って、トントンは?!」
溜まらずに私は叫んだ。しまった、赤ん坊が泣く!
「なに、それ」
「あはははは、なんだそれ」
ダニエルは大笑いだ。でも、トントンは必要なのです。
「赤ん坊をまっすぐに抱いてください、スサンの顎を肩に乗せるように!」
「はっ、はい!」
「腰あたりを持って、左手で優しく背中をトントンと叩いてください」
言われた通りする村長だったが、何をさせようとしているのかと言う顔だ。
なんだよ、トントンしないのかよ、ダメじゃん!
「ああ、母さんがこの子にお乳をあげたあと、背中を叩いていたわ」
「それ! それ必要です」
「でも、母さんは抱いた格好だったけど…」
「それではダメです。お腹がきゅっと詰まっているので、のばしてトントンした方がいいです」
「それってどうしてなんだい?」
ダーヴィッド村長の質問に答えたのはスサンだった。
大きなげっぷをして見せた。
「答えはこれです」
「おっさんみたい」
「スサンは女の子なんだぞ、おっさんとか言うな!」
ヨエルのつぶやきに、ダニエルが怒る。でも、あまりにも大きなげっぷだったので、みんな笑ってしまった。
「赤ちゃんは、まだお腹の中は大人と違います。だから飲んだお乳を下に降ろしてあげると吐きませんよ」
「そうなのか!」
もしかしたら、食が細いのではなく、飲んだものを次に送る機能が弱いのかもしれない。何せ赤ちゃんには胃の弁が形成されていない。その上にまだ胃がまっすぐに近い管なのだから。
「よかった、これで夜泣きをしないでくれれば……いや、少し手加減をしてくれればいいのに」
「良く泣くんですか?」
「そうだね、夜はとくに泣くね。おしめも汚れてないし、お腹を空かせてもないみたいだから、どうすれば泣き止むのか…」
「あー、それは……」
間違いなくストレスだ。良く、人ごみで大泣きする赤ちゃんを見たりする。お母さんは泣き止ませようとするのだが、これが意地でも泣き止むものかと言うほど泣く。これ、大概は疲れて眠いのに、眠りやすい体制でないということ。もう1つは、眼に入れた情報、耳で聞いた情報が大量すぎて、それがストレスになり泣くパターンだ。
大人は『泣かない!』って、我慢をすることもできるだろう。だけど、もともとは、泣くという行為は無意識下で起きるものだ。すなわち、ストレスにさらされると、血管の中にプロラクチンなどの物質が増える。すると、人体が危険を察知して『泣け』と体に命じるのだ。なぜなら、この物質は涙腺からしか、体外に排出できないからである。
人は睡眠時に、起きていた時に得た情報を整理する。その時にも過度な情報処理で、ストレスとなり、夜泣きに繋がる。または、寝ている間に不安な夢を見るとも考えられる。とにかく、こーゆー泣きは安心させてあげることしか、泣き止ませることは出来ない。
が、ここの人にストレスとか、プロラクチンやセロトニンなんて説明すると狂人と思われかねない。
「知っているなら、教えてくれないか」
「えーっと……」
「この夜泣きが、アーダを不安にさせるんだ。誰に相談しても解らないし……」
何、この世界の赤ん坊は、がんがん飲んで、夜泣きなどしないで寝ているのか? なんと、私の世界のお母さんは、食が細いだとか、夜泣きが酷いとかかなりと言うか、大半のお母さんは悩んでいるんだぞ!
「奇麗なものを見て、奇麗だなぁと思うことや、美味しいものを食べて、美味しいと思う心が強いと、夜に良く泣きます」
「はっ?」
いや、みんなそんな顔しないで! 私だって、一所懸命に説明しているんだからさ。
「えっと……大切なモノを無くしたりした時に、いつまでも泣いている子とそうでない子がいますよね」
「ヨエルはいつまでも泣いているもんな」
「うるさい!」
「それは、泣き虫とかではなく、心が落ち着くのにとても時間がかかる人です。強い風が野原に吹くと、いつまでも揺れている草と、すぐに止まる草があると同じことだと思います」
「それは、茎が細いから、いつまでも揺れていると言うこと?」
「うん、アーベルが言いたいことは解るよ。だけど、細い茎の草が簡単に折れちゃうわけじゃないでしょ? 細いけど柔らかいから折れずに元に戻るよね」
「ああ、そうだな。しなやかさは、強さでもあるからなね」
「そう、スサンはとても優しい子なんだと思う。誰か人が傷ついているのを見ると、自分も傷つくように感じる子だと思う。だから、夜に怖い夢に泣くんだと思う」
夢のせいにしてしまおう。もう無理、私には無理!
「怖い夢で泣いているのか」
「だから、お腹もすいてないし、おしめも汚れてないのに泣くのか?」
ダーヴィッド村長さんは少し懐疑的だが、ダニエルなどは単純だった。
「だから、お腹がすいていなくて、おしめも汚れてなくて泣いた時は、安心させてください。抱っこして、撫でてあげてください」
「まぁ、そうするよ」
「泣くのは赤ん坊の仕事ですから!」
やっぱり懐疑的な表情のダーヴィッド村長に、ピシッと指をさす。が、みんなに笑われて終わった。
ちぇっ、良く泣く子は肺活量が増えて心肺機能が発達するのに……。
でもまぁ、どうすれば良いか解れば、心にゆとりが出る。ダーヴィッド村長さんもとりあえず実践してくれるようだし。
スサンも吐いてないし。
スサンを抱いて帰る村長に、皮の水筒やヤギ乳を暖めるのに使った陶器は、しっかり煮沸消毒するようにと念を入れて帰した。
随分と時間を取られてしまったよ。
「ここの村の赤ちゃんは、食が細くないの?」
「ん〜、どうだろう。あまり食べないって聞いたことないかな」
私はアーベルに問う。でも、アーベルだってまだ14歳で、その14年間で産まれた子はどれくらい居るのかな? とは、思うけど。
「レギン、アーベルとヨエルとエイナは、食が細かった?」
「……いや、アーベルの記憶はないが、ヨエルとエイナは良く飲んで食べたなぁ」
レギンは懐かしそうな顔で、近くにいたヨエルの頭を撫でる。そして、レギンとアーベルとブリッドの話しを聞くと、周囲でそんな話しは聞かないという結果に終わった。そうか、少なくともこの村では食が細くて困っている人は、3人の記憶になかった。夜泣きは良く聞くらしいのだが……。
「でも、エルナちゃんは凄いですね」
「だろ?」
「うちのダニエルなんて、時々何を言っているのか解らなくなるのに……」
「特に、ダニエルはだろ?」
アーベルとブリジットが笑い、ダニエルがムキになって怒っている。笑った私にも、ダニエルは噛み付くので、その後にアーベルが言った言葉の意味を、私は疑問に思うほど、記憶できるほど意識が向いていなかった。
「だからさ、アルヴィース様じゃないかって思うんだ」
《エルナ 心のメモ》
・堀を飛び越えるアッフという魔獣は、未だに謎
・この村には王の命令で住んでいる
・80年も昔から、壁を作り続けている
・ウシが柵を壊して脱走すると困っている
・カーペットという言葉がある
・アーベルが廃棄する予定の、ヒツジの毛玉たちをもらって、明日にはベッドに引くフェルトを作る
・レギンたちは、《禁忌の森》をゴミ箱に使っている
・この村の赤ん坊は、食が細いとか、夜泣きがひどいとか無いらしい
・授乳の後に背中を叩く行為は、赤ん坊を座らせたままですると言う。そりゃあ、吐くだろう?
・泣くのは赤ん坊の仕事は、通じない。