いない。
もし、もし。
自分の居たこと、経歴を一切残さず、誰にも“今の自分”を知られずに
死ねる方法が、あったのなら。
片桐佐久間は考えていた。
寒冷前線が近づき、冷え込む外を、窓越しに眺めながら。
外と違って暖房の効いた教室にいると、頬が火照り、時折換気をせねばならぬほど息苦しかった。
佐久間は頬づえをつきながら、じっと暗い、分厚い雲が秒速に流れる空を見上げている。
その頭の中には、議題に対する解答例がいくつか上がっていた。
海に沈む。心中後に何処かへ消え死ぬ。・・・やっぱり一家心中かな。
まだあどけない顔の下に、そんなことを考えているなど、誰が思っただろう。
佐久間は聞いていないと知りながら目の前で楽しそうに話すクラスメイトに目を向けた。
するとやっと自分の方に視線が向けられているのに嬉しそうに顔を輝かせると、野球部特有の坊主頭は身を乗り出した。
「今度は何考えてたんだ?今日の昼飯?あっウチはオムライスな」
どうでもいい情報を耳に入れたところで、佐久間は違うけど、と眼鏡のブリッジを押し上げる。
確か昨日はペペロンチーノとかいいながらハンバーグと言ってなかったかと思わず苦笑しつつも、早速彼も身を乗り出す。
「なぁ、迷惑かけずに死ぬ方法ってあるかな」
「死…って、また物騒なことを考えてるなお前」
「いつもだろ。あ、あと誰の記憶にもないっていう」
難しすぎだろ、とふくれながらも、坊主頭の岡本は腕を組んだ。
ゲームと野球しか頭にないバカの考えからすれば簡単なことしか、先ほど上げた例と同じようなことしか浮かんでこないとわかっているのだろう。
佐久間をちらちらを見上げながら、うんうんと唸っている。
まぁ、たぶんきっとまた何も浮かんでこないだろうとあと数分で休み時間が終わるのをを壁にかけられた時計を見上げて待っていると、はっ、と岡本は顔を上げた。
「タイムマシン!」
「は?」
「だからタイムマシンで戻ってさ、なかったことにすればいんじゃね?」
なんて現実味のない話だろう。
ぽかんと佐久間は目を見開いて、その自慢げにポーズをとる顔を見つめた。
流石にそれは、思い浮かばなかった。…けれど。
タイムマシン、タイムマシンかぁ、と同じ言葉を何度も口にして繰り返す。
「ちなみにその後は?」
「親ブッコロス?」
「お前意外とグロいな」
そっかぁ?、と照れたように頭の後ろを掻いた。いや、照れるところではないのだが。
その間にも佐久間は黙りこみ、また何か考え始めた。
「アンドロイド…」
「ん?」
「まず、それには人間そっくりのアンドロイドとタイムマシンが必要だ」
きょとん、と岡本は固まった。
________
きっとXXXX年後。
誰もがもしあったならと夢みるタイムマシン。
それが今もしあったなら。
きっとXXXX年後。
もしあればこの仕事も楽に、なんて夢みるアンドロイド。
それが今もしあったなら。
佐久間はまるで人のような質感の肌、細くまとまった髪、人工的に見えない自然な目。
何度も何度もテストを行い現在の最新技術で造り上げた、意志を持たぬアンドロイドをクリーム色をした球体に乗り込んだ。
設置された席に座ると、まるで生き物のようにまるい入口が閉じ、彼の周りにスクリーンが浮かび上がる。そのうちの左端にあるひとつに、鋭い目をした女性が反映されていた。
『先生、準備は』
「いつでも」
本当にいくのですか、と不安そうな色が目に浮かんでいる。
行くのだと、頷き微かに微笑む。
『出発5秒前』
4、3、2、1。
一瞬暗闇に視界が包まれ、恐怖心に襲われた。
大丈夫、何度も何度もテストした。以前だって向こう側へ行けたじゃないか。
不安になる胸のあたりをぐっと鷲掴み、瞼をぎゅっと閉じた。
自分が卑怯で、仕方がない。
佐久間は震えた。
殺すのが恐ろしいから、造り物の手で我が母の中にいる自分を、手にかけるのだ。
自分は消えるだけでと、生まれてもいない自分を殺しにかけるのだ。
未来を、消すのだ。
このアンドロイドも、タイムマシンも出来ていなかったことになっている。
俺の経歴も、居た記憶も、何もかも消えてゆく。
消えゆく恐怖は、計り知れない。もう決めていた決意が揺らぐ前に、アンドロイドの手に流産させるための薬を握らせてある。
「さぁ、行くんだ」
プログラム<計画>はメモリに刻み込み、その頭に挿入してある。
震える手で、開いたドアの向こうへと、その背中を押した。
______あぁ、懐かしい風景だ。
向こう側に見える、懐かしい風景。
科学もなにもかもが進歩してほぼ無くなってあやふやだった風景に、目頭が、熱くなる。
…さようなら。しばらくして、スクリーンに、今はもう亡き若い母親の顔が映る。
『鎮痛剤…?そうですか、じゃあ、飲みます』
にっこりと微笑む、母親の手に、水が注がれたコップと、薬の入った紙袋が手渡された。
懐かしい、貴方の声。懐かしい、貴方の顔。
さようなら、さようなら。
母の口に、今、あの薬が、運ばれる。
あの薬は、即効性。飲めば、すぐに。
ごくん
あぁ、終わってしまう。
今まで自分の積み上げたものがすべて、今、皆無になる。白紙になる。
刻まれた文字が。
…あれ。
「なんだ、これは」
頭が、ユラリ、ユラリと揺れるように。頭が、真っ白になっていく。
あぁ、そうか。消えてるんだ。
片桐佐久間という名前が、今この世から消えていくんだ。
まさか、こんなに早いとは思いもしなかった。
佐久間はがくりと、腰を落とす。ふと足元を見降ろすと、いつか観たアニメのように、つま先から光が上がっていた。
幼いころから決めていたことだった。
…キッカケになったのは、なんだったか。確かそんな話をしたのは…あぁもう、顔も思い出せやしない。
大事な大事な友であったことは覚えているのに、本当にかけがえのないバカな親友であったことは覚えているのに、
そいつが誰で、どんな顔で、何が好きで、何をしているのか。
何も、思いだせない。
その一瞬が、数時間に値するように思えて、恐ろしくて、恐ろしくて。
どうせ消すなら一気に消してくれ。一分一秒が、惜しい。
目の前で苦しむ母を見るのも、苦しい。
まるで雪崩のように思いを叫ぶ。
あぁ、なんて親不孝な子供だ。ごめん。ごめんな母さん。
もっと俺が強く生きていたら。もっとこの夢の道具を、あの青いロボットと眼鏡の少年のように、
素敵なことに使えたら。こんなことにはならなかっただろうに。
ごめん。本当に、ごめんなさい。
本当は消えたくなんかなかった。もっと生きていたかった。
でも耐えられなかったんだよ社会の、世界のプレッシャーに
押しつぶされるかと思ったんだ。
醜い言いわけだった。
それでも、言葉にせずにはいられなかった。
溢れる涙が、頬を伝っていく。
それでも前を向いて。もう、元には戻れないのだから。
誰かがそんなことを言った気がした。
乾いた手の音が、機内に大きく響く。狂った笑い声が、小さく響く。
「あぁ、すごい、すごい。奇跡的な、人類の第一歩だ」
それでもその実証結果は、自分が消えてしまっては、すべてなかったことになってしまうけれど。
きっといずれ、誰かが作ってくれるだろう。
この夢のタイムマシンを。あの夢のアンドロイドを。
そう、いつか。
でもその時は、俺みたいな過ちは、しないでくれ。
泣き叫ぶ。
身体はもう残っていない。
それにきっと、もうこの言葉さえ、誰の脳にも、歴史にも残らないのだろう。
ありがとう、さようなら
母さん。
もし貴方と向こうで会えたら。
あぁでも、もしかしたらそこでも俺は…
そこから先は、眠たくて、もう覚えていない。
end.