近づく足音、壊れる心
あれから2週間が過ぎた。
僕は少しでも雪希と長くいられる様に仕事を辞めた。幸い貯蓄はそこそこあったので、しばらく困ることはない。
幸輔も気を使って時々、お見舞いに来てくれているらしい。こないだはドラマでしか見たことないような大きなフルーツバスケットを持ってきて僕と雪希は目を白黒させてしまった。
Rasnさんとも不定期で遅れ遅れではあるが、連絡を取り合っている。雪希の件を話したら、
『Rasn:私にはきっと大丈夫、なんて無責任な言葉は言えません。私が言えるのは、残された時間をどうか、二人で有意義に過ごして下さい、ということ。後、あまり無理はしないで下さい、ということだけです。もし、何か吐き出したいことがあったら是非私や、周りの人を頼って下さい。……奇跡を祈っています。』
恐らく僕はこの二人には一生、頭が上がることはないだろう。本当に僕は恵まれているんだと思う。
雪希も今のところ大きな変化はない。時折、トイレに行きそのまま何をしにいったか忘れて帰ってきたり、先ほど食べた食事を忘れることはあったが、まだそこまで致命的な症状は見られなかった。
だが、何かを忘れる回数は日々増えていき、確実に脳の萎縮は進んでいることを、僕はひしひしと感じていた……。
僕は病室のドアをノックし、いつものように雪希を呼ぶ。
「雪希、来たよ」
「は~い、どうぞ~!」
部屋の中から雪希の声。僕はガラガラとドアを開け中に入る。
「昨日ぶり、雪希。どう? 調子は?」
僕は病室に入ると、上着を脱ぎながらいつもの台詞を雪希に言う。
「うん、身体の方は絶好調……なんだけどね」
雪希の声が沈む。雪希は例の『手帳』をパラパラとめくりながら深い溜息を吐いていた。
「ダメだよ、あまり気にしちゃ。病は気からっていうでしょ?」
僕はなるべく平静を装って雪希を励ます。が、多分雪希も気づいているのだ……自分が何かを忘れる回数が多くなってきている事に……。
「大丈夫、雪希には僕が一緒に居る、おばさんだってそうだ、だからそんなに不安にならなくてもいいんだよ」
僕は雪希を不安がらせないよう、しゃべりながら優しく頭を撫でる。すると雪希がホッとしたように笑う。……そう、雪希には笑っていてほしいんだ。
「そういえば夏輝、今日は仕事はお休みなの?」
僕は心臓がドクンと跳ねるのがわかる。
「うん、そうだよ」
何事もない様な顔で返す。大丈夫、雪希には悟られていないはずだ……。
「あ、それと昨日夏輝が持って来てくれた花、あれなんて言う花なの? すごく綺麗!」
再び、ドクンと跳ねる心臓。取り乱すな……と心に強く言い聞かせる。
「ああ、あれはスノードロップっていう冬の花だよ。花言葉は『希望』。今の僕たちにピッタリだと思って」
喋りながらも僕は不安になる。うまく笑えているだろうか? 顔はひきつっていないだろうか?
「へぇ~そうなんだ! でも夏輝にそんなロマンチストな一面があったんてね~、ちょっと意外」
雪希が悪戯っぽく笑う。僕はその雪希の言葉にやりようのない悲しみを感じていた……。
「なんだよ失礼だな。僕は花を見れば花言葉を語り、星を見れば星座を語る男だぞ」
悲しみを、動揺を悟られぬよう、僕はおちゃらけた台詞を吐くことにする。
「またまた~、嘘ばっかり! そんな姿、今まで一度も見たことないよ~」
その言葉を聞いて僕はほんの少し心が軽くなる。まだ……まだ雪希の中に僕との思い出は残ってる……!
僕は気を取り直し、幸輔が持ってきたフルーツバスケットからリンゴを取り出す。
「雪希、リンゴでも食べる?」
僕がそう言うと雪希がとても嬉しそうな顔をしてうなずく。
「うん! 丁度何か甘いものが食べたいなって思ってたんだ! さすが夏輝、私のことわかってるね!」
雪希が冗談めかして言う。
「ははっ、じゃあ待ってて。今、皮を剥くから」
僕はバスケットの横に置いてある果物ナイフを取る。
「でも、『お母さん』もやりすぎだよね~。こんなに大きいフルーツバスケット持ってきても、そんなに食べきれるわけないのにね~」
カランッと僕はナイフを落とす。バクバクと心臓が高鳴り、手がフルフルと震える。
「夏輝! 大丈夫!? 怪我しなかった!」
後ろから雪希の心配そうな声が聞こえる。僕は額から流れる汗をそっと拭い、声が震えないように細心の注意を払う。
「大丈夫……ちょっと手が滑っただけだから……。ごめん、ちょっとナイフ洗ってくるね……」
「夏輝!」という雪希の声を聞こえない振りをして、僕は足早に病室を出る。
限界だった……。あれ以上あの場所にいたら、僕は大声を出して泣きだしてしまいそうだった。
今のフルーツバスケットのことだけじゃない。
雪希に仕事を辞めたと、僕はもう『5回』言っている……。
『一昨日』『おばさん』が買ってきたスノードロップの花言葉を、その日僕に教えてくれたのは『雪希』だった。
少しずつ、だが確かに歯車は軋み、動きをが慢になってきている。ヒタヒタと鎌を持った黒ずくめの死神が近づいてきているのだ……。
僕は給湯室でナイフを洗い、自分の顔もバシャバシャと洗う。
(駄目だ……僕がしっかりしないと)
僕は気持ちを切り替え、病室に戻る。
僕が先に折れてはいけない。大丈夫、大丈夫だ……と自分に言い聞かせる。
……だが死神はそんな僕の思いを嘲笑うかのように、軋んだ歯車に容赦なく鎌を振り下ろしていた。
ガシャンッ!! と、軋んだ歯車の一つが鎌の一撃を受け、音を立てて砕け散った……。
あれから一ヶ月……。
徐々に健忘が進行していく雪希に、僕は何度も心が折れそうになっていた。
そして一昨日。……とうとう、一緒にお見舞いに来た幸輔のことを認識できなくなっていた。
「俺はここまでだな……。夏輝、後はお前ががんばらないとな。……でも、何か困ったことがあったらいつでも言えよな」
僕の肩にポンと手を置き、無理やり笑顔を作りながら、幸輔は静かに来た道を引き返していった。その背中はとても辛そうで、寂しそうだった……。
「夏輝? あの人、誰だったの? 会社の同僚の人?」
あまりに残酷すぎる雪希の言葉に、僕は流れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら言った。
「あの人はね……名前は幸輔っていって、僕の……たった一人の大事な親友だよ……」
僕は泣き笑いのような顔でそう言った。
その日は幸輔のことを沢山、本当に沢山雪希に語った。
雪希は終始、笑顔だった……。
……そんなことを思い出しながら、僕はいつもの雪希の病室のドアの前に立つ。ハァと一つ深呼吸をする。
(僕が頑張らないと……ヨシッ!)
心の中で気合を入れ、僕は病室のドアをノックする。
「は~い、どうぞ~」
ガラガラっとドアを開け僕は病室に入る。
「来たよ、雪希。どう? 調子のほうは?」
いつものように僕は雪希に近づきながら雪希のベッドの脇まで歩く。雪希を見ると僕を見ながらキョトンとした顔をしている。
「……? 雪希? どうしたの? 僕の顔に何かついてる?」
僕がそう言うと雪希が恐る恐るといった表情で言った。
「えっと……夏輝、だよね?」
ピシッ、と僕の心に亀裂が入る音がした。
とうとう始まってしまった……覚悟を決めていた日がきてしまったのだ。
僕はそれから必死だった。雪希の中から消えてしまわないよう、毎日二人で過ごした日々の話をした。写真や卒業アルバムも持ってきた。学生の頃の話も沢山した。雪希も僕のことを忘れまいと、必死に僕の話を細かく『手帳』に書き込んでいた。
だが、雪希の中の僕という存在は手ですくった砂のように、サラサラと少しずつ手の隙間から流れ落ちていった……。
そして二ヶ月が過ぎた。
雪希の手帳は書き込みで真っ黒になり、僕の心も既に何度も限界の悲鳴を上げていた。それでも僕はここで砕けるわけにはいかなかった。砕けたら全てが終わってしまうからだ……。
そして今日も、僕は雪希の病室の扉の前に立つ。ここしばらくまともに寝れてないせいもあり、満身創痍で僕は病室の扉のノックをする。
『コンコン』
「は~い、どうぞ~」
僕はフラフラしながら病室に入る。
「雪希、来たよ。どう? 調子は?」
僕はもうお決まりとなった第一声を雪希に言う。
だが僕は気付いていなかった。この時にはもう全てが手遅れになっていたということに……。
「雪希?」
だが僕の言葉にボーッとした顔でなんの反応も示さない雪希。僕はを怪訝に思い、雪希に近づく。
そして雪希は僕に言った。僕が今、最も恐れている崩壊の言葉を……。
「えっと、どちらさまでしょうか…………?」
僕の中で何かが、ガシャーン!! と音を立てて崩れていく音が聞こえた……。