知りたくなかった事実、気づいてしまった現実
幸輔の電話を受けてから30分。僕と幸輔はタクシーに揺られ、逸る気持ちをなんとか押さえ込み、市内の総合病院に向かっていた。
あの後とりあえず病院に行こうという幸輔に従い、駅前で落ち合うことにした。幸輔は本来今日も仕事だったのに、僕を心配して会社を休んで一緒に病院まで着いて来てくれていた。
病院の入り口でに着くと、抑えていた焦りが爆発し、僕は飛び出すようにタクシーを降り病院に駆け込む。
「おい、夏輝!?」
後ろで僕を呼ぶ幸輔を無視し、僕はモタモタと開く入り口の自動ドアを身体を横にしてすり抜ける。そして院内の総合案内に座っている受付に僕は尋ねる。
「すいません! 新田雪希さんが入院している病室はどこですか!」
自分でも驚くほどの大声で僕は受付に詰め寄っていた。周りが何事かこちらを振り返り、辺りがシーンと静まり返る。
「えっ、あの……あなたは……?」
しどろもどろする受付の女性に焦っていた僕は更に大声をあげる。
「僕は雪希の彼氏です! そんなことより雪希は今どこにいるんです!」
公衆の面前でとんでもない大胆発言をしながら、僕は受付の女性に掴みかからんばかりの勢いになる。すると後ろからガシッとたくましい腕が、僕のことを羽交い絞めにする。
「止めろ夏輝! 何やってんだ!」
耳元で幸輔の怒声。僕はハッと我に返り、だらんと全身の力が抜ける。呼吸が乱れ、ハアハアと肩で息をする。幸輔は僕を離すと、その手を僕の右肩にポンとのせる。
「気持ちはわかるが落ち着け。そんな血走った目でお前は雪希ちゃんに会うつもりか?」
幸輔が柔らかい口調で僕を諭す。
「……ごめん」
僕はフゥと息を整え、幸輔に謝る。そして受付の女性に向き直り僕は頭を下げる。
「取り乱してすみませんでした……」
その様子を見て受付の女性も安心したのか怯えた表情を崩し、ぎこちないが営業スマイルに戻る。
「い、いえ。えーと新田雪希さんの病室でしたっけ?」
「あっ、はい……」
少々お待ち下さいと言って、女性がPCの端末をカチャカチャと操作する。
(会える……もうすぐ雪希に会える……!)
僕は再び逸りだす感情を押さえ込み女性の返事を黙って待つ。
「夏輝……君?」
すると後ろから聞き覚えのある声が僕の名前を呼ぶ。振り向くとそこには……胸に花束を抱えた雪希のおばさんが、驚いた表情を浮かべ僕を見ていた。
「おばさん……」
病院のどこかで会うかもとは思っていたが、まさかこのタイミングでばったり会うとは思わず、僕は言葉を詰まらせる。
「どうしてここに……?」
動揺を見せるおばさんに、何を言えばいいのかわからず迷っていると、横に立っている幸輔が口を開く。
「おばさん、お久しぶりです。幸輔です」
幸輔がそう言うとおばさんがハッと何かを思い出したような顔をする。
「幸助君? あらあら久しぶりねえ、高校の卒業以来かしら……」
「そうですね。えと……今日、夏輝をここに連れて来たのは俺です」
幸輔の言葉におばさんは再び驚いた表情を見せる。
「どうして二人してこんなところに……って、聞くまでもないわよね……。そっか、とうとうばれちゃったのね」
ハァッとおばさんが小さく溜息を吐く。その溜息には、諦めのようなものが感じられた。
「すいません……。この一週間、おばさんと妹さんを後輩に尾行させてました。それで後輩が雪希ちゃんがなんか重い病気にかかってるって話をここで聞いちまったみたいで……ホントすいませんでした!」
幸輔が深々と頭を下げる。
「ふふっいいのよ。夏輝君のためにやったことなんでしょ? それに私もこの年になってストーカーされるなんて、ちょっぴり嬉しいし」
おばさんがクスクスと笑う。
「それで雪希は……?」
僕は我慢できず、今一番知りたい事をおばさんに尋ねる。すると笑っていたおばさんの顔にスッと暗い影が落ち、僕は幸輔の話が真実であることを嫌でも悟ってしまった。
「ちょっと、そこでお茶でもしましょうか……」
そう言うとおばさんは病院の庭に備え付けられているベンチを指差す。
「……わかりました」
先に歩き出すおばさんの後を追って僕と幸輔も歩き出す。その途中、幸輔が僕にそっと耳打ちをする。
「おばさんのあの様子……多分、夏輝にとってはかなりキツイ話になると思う。その辺、覚悟しとけよ……」
どうやら幸輔もおばさんの只ならぬ空気に気付いているようだ。
「ああ、わかったよ……」
「まあ、またお前が取り乱したら俺がぶん殴ってでも止めてやるから心配すんな」
うなずく僕に幸輔がそう告げる。
「ああ、頼むよ……」
幸輔のぶっきらぼうな優しさを噛み締めながら、僕はおばさんの後に続いていった……。
自動販売機が並ぶベンチの前……僕はおばさんの言葉に今買ったばかりの缶コーヒーを取り落としそうになる。
「脳が……萎縮している?」
反復する僕の言葉におばさんが小さくうなずく。
僕はその言葉が何を意味しているのか即座に理解できなかった。
「最初はね、何もない所を指差して『虫が飛んでる』とかそんな感じだったわ。私も一緒に暮らしていないせいもあって、そこまで深く気にしてなくてね」
おばさんが自虐的な笑みを浮かべる。
「でもね、こないあの子の家に行った時にね、たまたま見ちゃったの……あの子の手帳。小さい手帳にねびっしりと書いていあるの……昨日は何を食べたとか、ゴミの日はいつだとか、大学のこの人は誰とか、そんなことが沢山……」
そこまで言っておばさんは口に手をあてて、嗚咽を漏らす。
僕は僕で、この場から今すぐ逃げ出したい衝動を必死に抑える。幸輔も話を聞きながら、チラチラと僕の様子を伺っていた。
「それでね、その時あの子に言われたの。『あれ、お母さん? いつ来たの?』って……」
その言葉を聞いて、胃の中のものが逆流してくるのが分かる。僕はこみ上げる吐き気を堪えながら、今のおばさんの話を整理しようとする。が、混乱する僕の脳に今の現状をまとめるだけの容量など残っていなかった。
「えっと……つまり、若年性アルツハイマーってことですか?」
僕の様子を察して、幸輔が僕の聞きたかったことを代わりに聞いてくれる。
おばさんの顔に更に暗い影が落ちる。その顔を見て僕の心が『もうやめてくれ』と叫びをあげる。
「症状としては近いらしいわ。幻覚、妄想、物忘れ……。でもね、それにしては進行が早すぎるらしいの。今も必死でお医者様が調べてくれてはいるんだけどね……原因がね、わからないの……」
おばさんの目から大粒の涙が次々と溢れ出す。
(原因が、わからない……?)
僕は途方に暮れる。おばさんの言葉が壊れたおもちゃのように何度も何度も繰り返し、僕の頭に木霊する。
「お医者様が言うにはね、かなり前から自覚症状はあったはずらしいの。でもね、あの子ずっと我慢してたみたい。きっと私たちに迷惑掛けないようにでしょうね……。だから、あんな手帳まで作って……、でも、私は気付いてあげられなかった! ホント……母親失格ね」
おばさんが再びあの自虐的な笑みを浮かべる。そこで僕は先ほども見せた、おばさんの自虐的な笑みの意味を理解する。
(そうか、だからさっきもこんな顔を……。……?)
僕は今のおばさんの言葉と表情に何か引っかかるものを感じ、考える事を放棄しつつある脳を無理やり動かす。
(かなり前から自覚症状……、気付いてあげられなかった……。……っ!?)
僕はガクッと膝から崩れ落ちる。
「!? おい夏輝! どうした!」
幸輔が慌てて僕に駆け寄り、肩を揺する。だが今の僕に、幸輔に受け答えをしてあげられる余裕は皆無だった。
(僕も……同じだ、気付いてあげられなかった……。あのイブの晩も、その前も……。何も、何も……!)
モノクロの視界がグニャリと歪み、口から「あ、あ……」と呻き声が漏れる。
気付けなかった……気付けなかった……気づけなかった……!!
(雪希のことならなんでもわかる? 一体雪希の何をわかってたって言うんだっ……!)
すさまじい自責の念が襲いかかる。この役立たずの脳みそを、今すぐ頭蓋骨から取り出して地面に叩きつけてやりたかった。
(謝らなきゃ……謝らなきゃ……謝らなきゃ……どうやって? どんな顔をして? でも謝らなきゃ……謝らなきゃ……!)
頭の中に小さな台風が起こっているようだった。激しい風と雨は僕のまともな思考をグチャグチャにかき回し、思考の全てを無秩序に、バラバラに吹き飛ばす。
そんな混沌とした思考にまま、視界の端で心配そうに僕を見るおばさんの方を向く。
「謝らなきゃ……。雪希に……会うことはできますか……?」
頭の中を台風でかき回された僕は、その一言だけをやっとの思いで紡ぎだす。
「夏輝君……あの子に会う前にこれだけは聞いておいて」
僕の記憶の中でこんな厳しい顔をしたおばさんは見たことがなかった。
もういい、もうたくさんだ……。一体これ以上どんな残酷な現実が待ち受けているんだ……。
僕の心が自衛の警笛を鳴らす。聞くな! 今すぐここから逃げ出せ! でないと……。
だがそんな心とは裏腹に僕の身体はここから逃げ出す事を許さない。いや、身体が動かないと言ったほうがいいかもしれない。
そしてスローモーションのように、おばさんの口が動く。
(やめろ、やめろ、もう聞きたくない! やめてくれ!)
完全に身体は硬直し、耳を手で塞ぐ事もできない僕におばさんは喉を詰まらせながら言った。
「お医者様が言うにはね……あの子の、雪希の寿命は……もって後一年だそうよ…………」
ブツンッ! と僕の中で何かが落ちる。ガシャンッ! 心が留め金から外れ、抜け落っこちた音がした……。