芽生えた気持ち、溢れた想い
次の日、僕は朝から出かけていた。僕の家から電車で2駅、改札を出てすっかり歩き慣れた道をある場所を目指して歩き出す。
新田雪希……、そう、僕の大好きな人が住んでいるその家に向かって……。
歩きながら僕はふと昔の頃を思い出す。
(そういえば、昔からよく新田に間違えられてたんだよな……)
少なくとも僕は今まで一度も初対面で新田と読んだ人を見たことがない。
(小学生の頃はよくそのネタでからかわれてたっけ……)
そしてその度に雪希は目に涙を浮かべて真っ赤な顔をしながらこう言うのだ。
「ちがうもん! わたしの苗字は新田だもん! お父さんがくれた立派な苗字なんだもん!」
そう言って雪希は男子相手にも怯む事なく、その小さな体で自分の大事なものを必死に守っていた。
雪希の父親は雪希が小学校1年の時に事故で亡くなった。とても優しく穏やかな人で、よく僕と雪希を遊びに連れてってくれた。雪希はそんな父親にとても懐いていた。そんな雪希にとって、父親の姓である新田という苗字は父親が自分に残してくれたとても大事なものだった。
(それでその度に僕が割って入ってとばっちりを被るんだよな……)
雪希と男子相手が取っ組み合いになることも多々あった。雪希はどちらかといえば体が小さいほうだった。しかも女の子、結果は目に見えている。
僕はその度に間に割って入り、雪希のことを庇った。幸い、当時空手をやっていたのでクラスの連中相手に負けることはなかった。
そして男子連中を追っ払い、僕は決まって雪希を叱る。
「なんで男子相手に喧嘩なんかするんだよ! 女子が男子に勝てるわけないだろ!」
そう言うと雪希は目に涙を溜めながらこう言うのだ。
「だって……グスッ、あいつら……わたしのこといつも新田て、グスッ……、お父さんから貰った大事な苗字、ズズッ……馬鹿にして……グスッ、わたしは、うぅっ……、新田じゃないもん……、新田(新田)だもん……、うぅっ、うわぁぁぁぁぁんっ……!」
そしてこれも決まって、雪希が膝を抱えながら泣き出すのだ。もう何度も繰り返した光景。
そんな雪希を見るたび僕は思った。この小さな女の子を守ってあげたいと。1人で泣いて、強がって、怖くて、それでも戦って、また泣いて……、そんな思い、もうさせたくなかった。
この辺りから単なる幼馴染は守りたい対象に変わり、それが恋に変わるまでそう時間はかからなかった。
元々雪希は第三者的にみても可愛い方だと思う。中学、高校になると雪希は更に可愛く、女らしくなり、告白されることはあっても、からかわれるような事はもうなかった。
まあ告白されたって聞くたび僕はやきもきしてたけど……。
(今にして思えば小学校の男子連中も、ただ好きな子をからかいたかっただけだったんだろうな……)
好きだからいじめる……、幼少期特有の真っ直ぐで歪んだ……矛盾だらけの愛情表現。
(おっと……、この路地だ)
考え事をしながら歩いていたせいか、目的地はいつの間にかすぐそこまで迫ってきていた。
細い路地に入り2つ目の電柱を右に曲がったところで、雪希の住んでいる1人暮らし用の小さいけど小奇麗な外観のアパートが見える。
2階の201号室。階段を上り1番奥のドアの前に立つ。
(どうしよう……、心臓が口から飛び出しそうだ)
アパートに近づくにつれ景気よく鼓動していた僕のチキンハートは、階段を上り始めた辺りから手に汗を滲ませるまでにボルテージが上がっていた。雪希相手にこんなに緊張したのは恐らく告白以来だろう。
僕はグッと拳を握り締め、まだ震えている手でインターホンを押す。
『ピーンポーン』
無機質な電信音は僕の鼓動を更に早める。
(もうすぐ雪希に会える……、会ったらまずなんて言おう?)
期待と不安……黄色と灰色を混ぜ合わせた、そんな不明瞭な色が僕の心を塗りつぶす。
…………
……。
しばらく待ってみるが雪希が顔を出す気配は一向にない。
もう一度インターホンを押してみるが結果は変わらない。
(留守……なのか?)
スマホの時計を確認する。
8時56分……、どこかに出かけるにはやや早い時間だ。
(しょうがない、待つか……)
せっかく勇気をだしてここまで来たのに、引き返すのも躊躇われた。
僕はドアの前で待つことにする。
12月の冷たい風が容赦なく僕の体をすり抜ける。
今日は12月25日。今頃子供達は枕元に置かれたプレゼントを見て大はしゃぎしていることだろう。そして僕はそんなサンタの足跡を眺めながら穏やかな時を二人で過ごす……はずだった。
でも今、僕の横には誰もいない。寂しくぽっかりと開いた僕の横を見つめる。
ヒューッと再び冷たい風が吹く。2階の、しかも風除けなんて気の利いたものもないアパートの廊下で僕は寒さに身を縮める。
(こんなとこで待ってたら間違いなく風邪ひくな……)
冷たい風を浴びながら僕はまた思い出していた。
(そういえば雪希に告白した日もこんな寒い日で、長いこと雪希待ってたんだっけ……)
高三の冬、僕たち二人は同じ大学を受ける事になった。一緒に図書館に行き、一緒に勉強して、受験戦争真っ只中にもかかわらず僕はとても幸せな気持ちで満たされていた、……あの日が来るまで。
高校でも、その可愛らしい容姿のせいか雪希は相当モテていた。雪希が告白されるたびに僕はやきも
していたが、雪希は片っ端からその告白を断っていた。
そしてその日、僕は我慢できずに雪希にずっと気になっていた事を聞いてしまった。
「雪希って男子連中からの告白片っ端から断ってるけど……もしかして誰か好きな人、いるの?」
僕がそう聞くと雪希は頬を赤らめながら言った。
「いるよ……。ずっと好きな人」
雪希を見る。チクリと、胸に鋭い棘が刺さったような感覚がした。はにかむ様に笑う雪希の横顔はとても可愛くて、そう、……恋する女の子の顔になっていた。
僕は苦しくて窒息しそうだった。刺さった棘は僕の肺に穴を開け、僕に呼吸をできなくさせていた。
「告白とか……しないの?」
苦しい胸と息を悟られぬよう、僕はゆっくり息を吐き出すように問いかける。
「なかなか勇気がでなくて。もし振られて今の関係が壊れちゃったら……とか、そんな余計なこと考え出すとね~、一歩を踏み出せないって言うか……」
困ったような、恥ずかしいような、そんな笑顔をする。
見たくない……、他の男の話で雪希のそんな顔は見たくなかった。
ドクン、と黒い何かが心の中から湧き出してくる。嫉妬、妬み、独占欲、そんなマイナスな感情が僕を真っ黒に染めてゆく。
グッと唇を噛んで僕は黒の感情に飲まれない様必死に耐える。
少しでも気を抜いたら僕は雪希を、滅茶苦茶にしてしまいそうだった……。
「ねえ夏輝、なんか顔色悪いよ? 大丈夫?」
黙りこくる僕に雪希が声をかける。
そして黒く染まった僕を大きくて真っ直ぐな瞳で心配そうに覗き込んでくる。
僕はたまらず目を逸らす。
(やめろ……、やめてくれ……)
そんな純真な目で今の僕を見ないでくれ……。そんな心配そうな顔を僕に向けないでくれ……。
(自分を、抑えられなくなってしまう……)
「だい、じょうぶ、だよ……」
なんとか言葉を吐き出す。だが雪希は更に追い討ちをかけてくる
「ねえ夏輝? ホントに大丈夫なの? 顔真っ青だよ……」
雪希の暖かい手が僕の手をギュッと握る。
プツッと何かが切れた音が僕の頭の中に響き渡る。
「僕のことなんかどうでもいいだろっ!!」
僕は大声を上げる。雪希の肩がビクッとなり驚いて握っていた手を離す。
(やめろ……!、やめるんだっ!)
心で叫び続けるがもう手遅れだった。必死に抑え込んでいた黒い感情が、僕の心の容量を超えて決壊したダムの様に溢れ出す。そして溢れ出した感情は雪希を傷つける刃となって、僕の口から次々と吐き出される。
「好きな奴がいるなら僕のことなんかどうでもいいだろ! なんでだよ! なんでそうやっていつもいつも僕に纏わりつくんだよ! 僕のことを心配する暇があったらさっさと好きな奴に告白してそいつの心配をしてやれよ! 大丈夫だよ! 雪希は見た目可愛いんだから絶対うまくい……、!!」
赤く光る何かに僕はハッと我に返る。大きく見開かれたその雪希の瞳から、キラキラと夕日で赤く染まった大粒の涙が流れていた。
吐き出しそうになるほどの後悔が僕を襲う。
(雪希が、泣いて、る……? 僕、が……泣かし……た?)
目の前で大切な人が泣いていた。とても寂しそうな顔で、とても……悲しそうな顔で。
「そっか、夏輝は……私のことそんな風に思ってたんだね……、ただ……見た目が可愛いからっ、幼馴染だから、一緒いてくれただけでっ、うぅっ、ホントは私のことっ……、グスッ、ずっと……迷惑に……思って……、うぅぅぅ……」
最後のほうは泣き声で言葉になってなかった。
うつむいて、声を押し殺して泣く雪希に僕は必死に否定の言葉を言おうとする。
(ちがう! ちがうよ雪希! 僕は雪希の事をそんな風に思ったことは一度もない! むしろっ……!)
だが心で叫んでいるその言葉は窒息した金魚の様に僕の口をパクパクと動かすだけで、言葉としてでる事はなかった。今の黒く汚れきった僕の口から優しい言葉をだす事を、僕の汚れた心は許してはくれなかった。
「今まで……、夏輝に守ってもらってばっかりだったんだもん……、迷惑に思われても……、しかたないよね……」
心の中でちがうと叫び続ける。だが僕の口と体は石膏の様に固まり、まるで金縛りにでも遭ったかのように指1つ動かすことはできなかった。
「ごめん……、ごめんね夏輝……、もう迷惑かけないから……、夏輝の周りうろうろしたりしないから……、だからっ……!」
雪希はそのまま身を翻し、僕から逃げるように走り出す。
(待って! 待ってくれ雪希! 僕はまだ……何も……)
雪希の姿が廊下の向こうに消えていく。僕は力なくその場に座り込む。
終わった……、そう思った。雪希との関係も、僕の今の気持ちも、全てが風化したコンクリートの様にパラパラと崩れ去っていく。そしてその最悪の結末を呼び込んだのは何者でもない……自分自身だ。
「あ、ああ……、うわぁぁぁぁぁぁ……!!」
僕の声にならない叫び声が夕日に照らされた廊下にこだました……。