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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
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エピローグ

 海岸に沿って、ちゃんとアスファルト舗装された道路が延びる。波の音と海鳥の鳴く声以外何も聞こえない静かでおだやかな春の日。そこにバスが一台やって来た。


 バスは停留所に止まり、老人を一人吐き出すと、また再び去っていった。老人は長時間バスに乗っていたのだろう。「うーん」と唸りながら腰を伸ばし、腕を大きく広げて深呼吸をした。そして路肩に立って、海を眺めた。


 ――そして静けさが戻る。


 老人は立ち疲れたのか、大儀そうに腰を下ろす。視線は相変わらず海を見ている。


 その音は小さくて、老人の遠くなってしまった耳には届かなかったようだ。自転車に乗った若者が近づいてきて声を掛けたが、老人は相変わらず海を眺めたままだった。


 若者は大きな声でもう一度声を掛けた。


「日本の方ですか?」


 老人は、彼にとっては突然掛けられた声に驚いて、若者の方に振り向いた。若者は爽やかな笑みで繰り返した。


「あの、日本から来られたんですか?」


 老人はにっこりほほ笑んだ。


「そうですよ。あなたも日本人ですか。奇遇ですな。旅行中ですか?」


 若者の自転車は、ちょっとその辺を用事で走る為のものではなかった。ツーリング用とでもいうのだろうか、長距離を走るようにできている。そして後ろにはいろんな荷物が括りつけられていて、中には寝袋らしきものもあった。若者は嬉しそうに答える。


「ええ。自転車で世界中を回ろうと思って」


 老人は目を細めてうんうんと頷く。


「それは結構なことです。若いうちは旅をするのが良い」

「でも、こんなところで日本の方にお会いできるとは思いませんでした。ここって別に観光地でもなんでもないですよね。東洋人らしき人影が見えてきて、ちょっとびっくりしましたよ」

「海が見たくて来たんです」

「海、ですか? この海ってなにか特別なところがありましたっけ?」

「遠浅だそうなんですよ」

「はあ……」

「ワシは遠浅の海が好きでしてな。どこそこの海は遠浅だと聞くと、必ず訪れるようにしているんですよ」

「へええ。いろんな趣味の人がいますけど、遠浅の海が好きっていうのは珍しいですね。何か理由があるんですか?」

「理由と言うか……。遠浅の海って、海に入って沖の方に行けども行けども深くならんでしょう? 岸からずっと離れているのに海面は足首にも満たない。その感覚が面白くて」


 老人は、若者越しにどこか遠くを見るような目で言った。


「岸が見えないほど遠くまで行きますとな、三百六十度見渡す限り海の中に立つことになって、まるで水の砂漠にいるかのような気分になれるんですよ」

「水の砂漠、ですか」


 若者は老人の言葉を繰り返し、そして心配そうな顔になった。


「そんなに遠くまでお一人で海に入って大丈夫ですか? あの……お連れの方は?」

「昔は妻とあちこちの海に出かけたが、妻が五年前に亡くなってからはワシ一人で回っていますよ。それでも今まで大丈夫でした。実はワシは心臓が悪くて」


 ここで若者が眉間に皺を寄せたのを、老人は好ましげに見ながら続けた。


「それで定期的に医者に掛っているのです。それから長期の海外旅行前にも医者に相談します。だから、まるっきりの健康体の人より、医者に診てもらう機会が多いので、かえって心配いらんのです」

「なるほど。では今回の旅行もお医者さんの許可は出ているんですね」


 老人は笑った。


「もちろん。ご心配ありがとう」

「いいえ。余計なお世話だったみたいで済みません。確かにお元気そうですもんね」

「まあ、自転車で世界を回る元気はもうありませんがね」


 二人は笑い合い、若者はペダルに足を置いた。


「それじゃあ、僕は行きます。お爺さんも気をつけて下さいね」

「ああ、貴方も。若い人でも事故にあってはいけないからね。気をつけて」

「有り難うございます。じゃあ」


 老人は若者の自転車の姿が見えなくなるまで立って見送り続けた。



 しばらく経って、老人は道路から浜辺に降りた。そして靴を脱ぎ、靴下も脱いで裸足になると、打ち寄せる波に迎えられるように海の中へ歩いて入った。


 十分ほど歩いただろうか。岸辺はかろうじてまだ視界にあるが、遠い景色は春の朧な空気と混じり合い、その輪郭はもう掴めない。


 それでも水面は彼の足首より下にある。この海はまだまだ浅瀬が続くようだった。もう十分も歩けば彼は「水の砂漠」に佇む感覚を再び味わうことが出来るだろう。そう、高校生の時に経験したのと同じように。




 ――コーイチ。


 少女の声がした。老人は驚く。そう、この声が聞きたくて世界中の遠浅の海を訪ねて回っていたのだ。やっと会えた。再会できた。


「ミツルかい?」


 老人は足元を見た。いつの間にか、背に模様のある小さな魚が、老人の筋張った裸の足に纏わりついていた。


 ――そうよ。私、ミツルよ。


 その魚はクスクス笑った。


 ――でも、「ミツル」って呼ばれるのは久しぶり。


 老人は少し寂しそうな顔をした。


「君が魚の姿をしているってことは、もう君は亡くなってしまったのかい?」


 ――そう。ちょっと前にね。


「そうかい……」


 ――でも、私頑張ったのよ。


「女帝は上手く出来たかい?」


 ――もう、ほんっとに大変だった。


 と言いつつ魚の声は笑いを含んでいた。


 ――叛乱を起こされかかるわ、暗殺はされかかるわ。大変だったわよ。もちろん、私が頑張ったからってすぐ上手に治められたわけじゃないから、仕方なかったんだけど。でも、ちゃんと相手の言い分を聞いて、改めるべきところは改めたから、私がお婆ちゃんになった頃には、一応「賢帝」なんて言われたりなんかしたのよ。


「君ならできると思っていたよ。よく頑張ったね……。あの……それで、お世継ぎっていうか、結婚はどうしたんだい?」


 ――ちゃんと相手は見付かったわ。ちょっと時間はかかったけど。


「そうか……良かった……」


 老人は、自分の胸に寂しさがよぎるのに気づいて苦笑した。


「おめでとう」


 ――ありがとう。できるだけコーイチに似た人を探したのよ。


「……うーーん。そうかい。で、その僕に似た人はいい夫だったかい?」


 ――ええ、とっても。私のことを全力で支えてくれたわ。コーイチはどう? ちゃんとお嫁さんは来たの?


 老人は答える。


「僕も君みたいな女性と結婚したよ」


 ――あら、まあ。


 魚が笑うのに合わせて老人も笑った。


 そして老人は語った。イジメにあっていた高校は辞めたこと。両親にイジメを打ち明け、そしてもっと都会に住んでいた親戚のところで下宿しながら、そこで新しく別の高校に入ったこと。大学ではコンピューターを使った研究をしていたこと。同期にベンチャー企業を立ち上げた女性がいて、請われてその会社に入ったこと。そしてその女性と恋をし、結婚したこと。その女社長は優れた手腕の持ち主ではあったが、それでもやはり苦労も多く、自分は副社長として公私にわたって彼女を支えたこと。その妻とも五年前に死別したこと。


 異世界の住人であるミツルに、「コンピューター」や「企業」を説明するのに少々手間取ったが、老人はミツルに「コーイチのその後」を語って聞かせた。


 ――そう。コーイチも頑張ったのね。


「うん、まあね」


 ――楽しかった?


「うん。とても充実していたよ。生きている手ごたえ十分だったね。有り難う。君のおかげだよ」


 老人は、光一がミツルと出会う前には死のうとしていたことは言わなかった。けれどもミツルはまるで何もかも知っていたかのような口調で言った。


 ――ね? 生きてて良かったでしょ?


「うん。全くその通りだった。……君も楽しかったようだね」


 ――ええ。私も楽しかった。存分に生きたわ。ずっとコーイチのことは忘れてなかったのよ。そして私の中のコーイチには随分励ましてもらったの。有り難う、コーイチ。


「役に立てたなら良かった。……僕も君にずっと会いたかったんだ。あちこちの遠浅の海を旅してまわったんだよ」


 ――会えて良かったわ。


「うん。良かった」


 ――これでお別れね。


「そうか……。そうだね」


 ――さようなら。


 深い響きを込めて、ミツルは別れを告げた。


「ああ、さようなら」


 老人もしわがれた声に、こみあげてくる想いを込めた。



 そして老人は岸に向かって歩きはじめ、――立ち止まった。


 胸に激痛が走る。彼の心臓がぶるりと震え、最後の鼓動を終えたのだ。老人は浅瀬の中に倒れ込む。



 ぴちゃん――。


 水の音が彼の耳を叩く。


 ぴちゃん――ぴちゃん――。


 その音は規則正しく、繰り返し彼の耳を叩き続ける。



 その音に引きこまれるように彼は眠りについた。もう目覚めることのない永い眠りに。


 春の海。青空の中を、カモメの群れがぎゃあぎゃあと鳴きながら飛びまわる。水面に倒れ伏す老人の上でもそれは変わらない。


 こうして光一の長い長い旅は静かにその終わりを迎えたのだった。


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