雑居ビル
淡い黄色の光に包まれながら、光一の身体は下へ下へとふんわり降りていく。そして出口が見えてきた。濃紺の円が行く手に待ちうけている。
そこを通り過ぎると、光一は星空の中にいた。出て来た方向を振り返ると満月が煌々と光っている。
夜の空をゆっくりと降りていくと、眼下に星の群れが見付かった。いや、あれらは星ではない。街の光だ。星だと思っていた光は、道路沿いに列をなして伸びていたり、何箇所かに群れていたりする。
ああ、駅前だ。駅前の繁華街が見えて来た。光一は苦い思いがこみ上げてくるのを感じた。
――そうか、僕はあそこに戻るのか。
繁華街の目抜き通りから一本裏に入った道。そこに面して雑居ビルが立っている。その屋上に人が倒れている。白いシャツ。あれは光一の通っている高校の制服だ。仰向けに倒れている。その顔は光一のものだ。
光一は雑居ビルの屋上に降り立ち、自分の身体を見おろした。
――ああ、屋上の金網を昇ろうとして、足を滑らせるか何かして落ちたんだな。それで頭を打って意識を失ったんだ。
光一の身体が転がっている横には、脱いだ靴が丁寧に揃えて置かれている。その下には白い封筒があった。黒いペンで大きく「遺書」と書かれている。もちろん光一が書いたものだ。自分をイジメた生徒たちの名前とされたことを事細かに書いている。これを残してここから飛び降りて死ねば、あいつらに復讐できると思っていたのだ。
光一はその封書を手に取ろうとした。しかし光一の手は靴も封書も通り過ぎるだけで何も掴めない。
――身体の中に入らなきゃ駄目だな。
光一は、仰向けに横たわる自分の身体に触れてみた。すると磁石で引き寄せられるように身体に吸い寄せられ、しばらく意識を失った。
意識を取り戻してみると、夜の底が白かった。光一は身体を起こす。そして「遺書」と書かれた封筒を手に取ると、中身も確認せずにビリビリと破き始めた。
色の抜けて行った東の空がほんのりと朱に染まってくる。今まで無風だったが、光一が封書を破き終わった後、屋上に溜まっていた紙クズを吹き飛ばすように一陣の風が吹いた。紙片は空に舞い上がる。
それをしばらく見つめてから光一は、踵を返した。錆びた鉄の扉――この雑居ビルに来る前に、いくつか高い建物に昇ってみたが、どの建物も屋上には出られなかった。この扉だけが古かったせいか、光一が力を込めて押すと、何かが壊れる音とともに開いたのだった――をギイ―と押しあけて、光一は階段を降りていく。
コツコツコツ。誰もいない階段に足音を響かせて彼は地上へ降りていく。雑居ビルを出た時、ちょうど朝日が地平線から姿を現したらしい。くっきりと明るい光が、光一の目を射した。
光一は一瞬眩しく思い、そして一つの光景を思い出した。ミツルと夏の朝食をともにした日だ。「石の国」に無事入ることができ、宿に泊まった次の日の食卓だ。夏の光が眩しいとミツルは言った。けれどその当のミツルの方が、光一には眩しかった。
何か狂おしいほどの思いが込み上げてきたが、光一は飲み下した。そして自宅へ向かって歩き出した。
帰るのではない。
光一の新しい旅が、今、ここから始まる。