銀盤の月
光一が元の世界に戻る夜がきた。
光一が「海の源流」を覆うドームに入ると、そこには厳粛な雰囲気が満ち満ちていた。日も暮れたというのにドームの周縁では多くの神官たちが立ち働いていたが、何の物音もたてない。静寂の中、中心に据えられた銀の水盤から流れ落ちる水音だけがサラサラと響く。
水の湧き出る銀盤の傍に、人影がある。新しく皇帝となったゲルガンドが、白い礼装で姿勢を正して立っている。その隣には、ミツル――いや、ナイア皇女も白一色のドレスを身に纏い、緊張した様子で立っている。
この二人の近くに控えていた、これもまた白装束の神官長が、ドームに入って来た光一を手で招き寄せた。そして苦々しい表情で光一に話しかける。
「全く。貴方には冷や冷やさせられたものです。普通に旅の費用を考えれば、最短最速で『海の源流』に来るはずだったのに……」
ゲルガンドが神官長の苦情を遮った。
「コーイチがなかなかここまで来なかったのは、『彷徨える皇軍』で働いていたからだ。私にも責任がある」
「いやいや、皇帝を責めるつもりなど毛頭ございません」
恐縮しきりの神官長に一つ頷くと、ゲルガンドは光一に正面を向けた。
「コーイチ君、よく決心してくれた。礼を言う」
「い、いえ」
光一はそう答えて、思わずミツルを見た。光一と視線の合ったミツルはペコリと頭を下げた。その仕草が何となく可愛らしくて、光一の心にある感情が湧きおころうとした。それを断ち切るために光一は尋ねた。
「あの、僕はどうやって『海の源流』から、あちらの世界に帰るんですか?」
神官長が銀盤を指差した。
「月を通ってじゃよ」
「は?」
今日は満月で、しかも月は、ドームの中心に開けられた天窓からまっすぐ銀盤の水面へ影を落とす位置にあるらしい。銀盤の中で、丸く黄色く光る月の影が、湧き出る水に揺らめきながら、流れることなく同じ場所に漂っている。
「水面の月影に足を踏み入れられよ。そうすればそのまま貴方はあちらの世界に戻ることができる」
「…………」
光一には、銀盤の深さはせいぜい三十から四十センチに見える。足を踏み入れたところで膝くらいまで水に浸かって、銀盤の底に足が着くように思うのだが。
けれども神官長からはそれ以上の説明はなく、ゲルガンドもミツルも何も言わなかった。どうも腑に落ちないが、ここでもう別れを告げなければならないのだと光一は思った。
光一はゲルガンドとミツルに向き直った。そして朝から用意していた言葉を口にだした。
「ゲルガンド皇帝、ナイア皇女。お二人がいつまでもご健康でありますように。そして帝国がこれからずっと平和で、民が幸せに暮らせるようなものでありますよう、心からお祈り申し上げます」
そして深く頭を下げた。
ゲルガンドが礼を述べた。
「ありがとう。君も元気で。君のいる世界は必ずしも君に心地よいわけではないと聞いている。それにもかかわらず、我が帝国のために戻る決心を固めてくれたことに改めで感謝するとともに、君が君の世界で君自身の人生を切り開いていけるよう願っている」
そして微笑んで付け加えた。
「君なら出来る。私はそう信じているよ」
「有り難うございます」
「コーイチ……」
ミツルの声だった。光一は口を引き結んでから、彼女を見た。彼女もまた少し不自然に表情を消していた。しかしながら彼女の瞳は、複雑な感情に揺れ動いているのが光一にはわかった。
つい光一が何か言いそうになるのを制するようにミツルは動いた。
両手でドレスの膝辺りをつまんで横に拡げ、そして深々と頭を下げたのだ。そのまま頭を上げることなく、やや高めの澄んだ声で言った。
「帝国の民を代表して、貴方に御礼申し上げます。貴方が海から来てくれたから、帝国は変わることができました。有り難うございました。そして誓います。コーイチという『海から来た者』は帝国に平和と幸福をもたらしたと、後世の歴史に残るような、そんな治世を私がすることを」
そしてゆっくりと頭をあげた。彼女のワインレッドの瞳が細かく震えている。月の光のなかで、その潤んだ瞳が星のようにさやかに光っている。
「僕の方からも御礼を言います。ナイア皇女、有り難う」
光一はごくりと唾を飲み込んで、神官長に声をかけた。
「じゃ、僕、戻ります。あの、この銀盤に足を入れていいんですか?」
「ええ、どうぞ。聖なる銀盤にそんなことが出来るのも『海から来た者』だけですぞ」
神官長は別れを告げる光一を慰めてくれるつもりなのか、そんなことを冗談めかして言った。
それに笑みを作って応じながら、光一は水盤の中の月影に片足を踏み入れる。その足で水盤の底をさぐってみたが、どうも底はないようだった。本当にこの月の影は異世界までの通り道になっているらしい。
光一は思わずミツルを見た。もう本当にお別れなのだ。ミツルが口を開こうとするのを笑顔で押しとどめて、光一は月影の中に入ろうとした。
「ずるいわ!」
少女の声が響いた。
「へ?」
光一が重心を、まだ銀盤の外に残していた方の足に移し直す。ミツルが怒った顔でズンズンと近づきながら続ける。
「ずるいわよ。いつからそんなに格好良くなっちゃったのよ! コーイチってもっと優柔不断だったじゃないの! なんでこんな時、そんなに颯爽と立ち去ろうとするのよ!」
「ミツル……」
ミツルは光一のすぐ側まで来て立ち止まった。両手のこぶしを握り締めて、唇をぎゅっとかみしめながら、それでも押しとどめることのできなかった涙がぽたぽたと零れおちている。
光一は大きく息を吐いた。ミツルが顔を上げる。光一はこの世界に来て、これまでで一番勇気を振るった。ミツルの頬をそっと両手で持ち上げると、その珊瑚色のふっくらとした唇にキスをしたのだ。
――あたたかくて、やわらかい。自分の唇でミツルの唇を感じとりながら、光一は自分も涙をこぼしてしまうのを止めることができなかった。
顔を離すと、光一は自分の涙はそのままに、ミツルの涙を指で拭き取ってあげた。そしてミツルの濡れたワインレッドの瞳に注ぎ込むように別れを告げた。
「今まで有り難う。本当に有り難う。……さようなら。元気でね」
無個性な挨拶だけれども、さっきの畏まった口上より、ずっと気持ちを込められたような気がした。
そして光一は月影に足を踏み入れた。すううっと何かに引っ張られるように水面の下に滑り込む。しかし溺れているような息苦しさは無い。光一の身体は、黄色い月の光一色の空間をゆっくりと下降し始めた。
ミツルは光一の姿を追うように、銀の水盤を覗き込んだ。黄色い月影の中に、人の姿が居たように思ったが、それはあっという間に消え去ってしまった。それでも彼女は水盤から離れようとしなかった。両手を水盤の淵に置いて、長い首をうなだれるようにして、彼女はずっと水面を見つめていた。




