別れを告げる時
「ミツルの未来はもうミツルだけのものじゃないんだよ」
旧ゲルガンド邸の庭に姿を現したコーイチはティウにそう話し続けた。
「ミツルの未来はそのまま帝国の未来なんだ。ミツルが明るい展望を持とうとしないでどうするんだい? ティード将軍だって、帝国の将来を心配していらっしゃったのに」
ティウはぷいっとそっぱを向いた。だが、何かを思い出したように光一に向き直り、尋ねた。
「お前、あちらの世界に戻る件はどうするんだ?」
光一は答える前にミツルを見た。ミツルの顔がさっと強張る。
ミツルは思わず胸の前で手を組んだ。コーイチがあちらに戻ると言ったら辛い。戻らないと言ったら、自分が戻るよう説得しなければならないから、それも辛い。
しかしミツルの心配は前者だけでよいとわかった。光一は言った。
「多分、ミツルの考えている通りだよ」
ミツルの緊張した様子に対してそう言うのなら、コーイチはあちらに戻るのだろう。あちらはコーイチにとって楽しい世界ではないと聞いている。学ぶために群れる必要はないと思うが、当面彼は入るべき群れからはじき出されている現実と直面しなければならない。
そうであるからこそ、彼の決意は自分の口から発するべきだ。ミツルはそう思い、そのまま口にだした。
「コーイチ、貴方の口から決心したことを聞かせて。そちらの方が貴方の為だと思うから」
光一は、ミツルのきつく組み合わされた手の指の関節が白くなっているのを、痛ましげに見ながら答えた。
「うん。……僕はあちらの世界に戻ろうと思う」
ミツルが息を吐いた。わななくような吐息だった。
「僕は、本当は君と居たい。いつまでもずっと一緒に。でも、そうしたら、僕達は、自分の幸せの陰で不幸になった人のことを考えずにいられないだろう。ティード将軍や、僕が弾きだしてしまうこの世界の魂の一つや、ゲルガンド王朝が不安定になってしまってそのために不幸せになってしまう人たち。君はきっと悲しむだろう。僕だってそうだ。そしてお互い相手を悲しませる原因になったことを後悔すると思う」
ミツルは、組んでいた手をますますきつく締めつける。その美しい指が折れてしまうのではないかと光一が心配になるほどに。
「コーイチの言うとおりね。私もそう思う。本当は私だってコーイチをあちらに戻したくないの。でも、コーイチが正しいと思う」
光一はミツルの組まれている手に気を取られていて、気がつかなかった。ミツルの大きなワインレッドの瞳に涙が溢れんばかりに満ち、それを零すまいとミツルが何度も強いまばたきをしていたのを。
ミツルが涙をこらえているのを見たのはティウだった。ティウは、一つ息を吐き、腰に留めてあった剣を丁寧に外した。
「ミツル、剣を貸してやろう」
「え?」
「お前はコーイチほど強くはないようだからな。お前に力を貸してやろう」
「有り難う……ティウ将軍、有り難う」
ミツルはティウの差し出した、ティードリーアの魂の宿る剣を、両手で押し頂くようにして受け取り、胸に抱いた。そして怪訝そうな顔の光一に向かって言った。
「コーイチ、私にはちょっとやらなくてはいけないことがあるの。貴方の決意、聞かせてくれて有り難う」
そして淡く微笑んでみせると、踵を返し、急ぎ足で立ち去って行った。
「コーイチ、手に何を持っている?」
ティウに問われて、光一は慌ててアチェから貰った酒瓶を差し出した。
「あの、これ、アチェ副将からです。ティウと二人で飲めって。僕は、本当はまだ子供だからあちらの世界の法律では飲んじゃいけないんですけど。でもアチェ副将は、僕はもう大人から飲む資格があるって……」
「なるほどな。確かにお前は立派な大人になったもんだ。さっきの言葉は良かった」
「……違いますよ」
「ん?」
光一の目からぽろぽろと涙が滴り落ちた。ミツルと相対していた時の緊張はもう切れてしまった。光一は泣きたかったし、もう自制する気力もなかった。
「……僕……本当は……別れたくなんかない……んだ」
嗚咽まじりに光一は言う。服の袖で涙を拭いながら、本音の溢れだすのに任せる。
「そうか、まあ座れ」
ティウはそう声を掛けるとともに、光一から酒瓶を受け取った。座っても光一は泣きやまない。
「……僕は……ミツルが……好きなんだ……」
「そうか……」
「単に好きってだけじゃなくて……ティウがティード将軍を好きだったみたいに……好きだったんだ……」
ティウは自分の名が出てきて少しばかり渋い顔になる。が、それについては何も言わなかった。
「ミツルと……手をつないで……もっと……それ以上のことも……ふ、二人で一晩過ごすとかして……そんな風に……僕は、僕は……ミツルが好きだったんだ……」
「ああ、なるほど」
「……うん……」
ひっくひっくと光一は泣き続ける。ティウは酒瓶の栓を抜き、グイっと一口飲んだ。
「美味い。これは逸品だ」
「あ……アチェ副将も……いいお酒だって言ってました」
「ほら、次はお前だ」
光一は一瞬きょとんとしたが、差し出された酒瓶を受け取り、一口飲んだ。
「ゲホッゲホッ」
むせる光一にティウは声を掛ける。
「強い酒だからな。水のように飲むんじゃない。舌の上に乗せるようにして飲むんだ」
「はい」
もう一口飲んで、光一は酒瓶をティウに返す。ティウはゲルガンド邸の窓を――若かりし彼の愛妻がそこに佇んでいるかのように――見つめながら、一口飲み、また光一に渡した。
酒瓶を往復させながら、二人の男たちは静かに泣き続けた。
ミツルは亡きリザ皇女の部屋に戻って来た。そして窓を開け放ち、やや低めの声を発した。
「出てらっしゃい、黒い鳥」
バサバサっと羽音がして、上空から黒い鳥が舞い下りて来た。そして、当然といった風に部屋の中に入り、円卓の上にとまった。
「何でございましょうかな? ナイア皇女」
ミツルは黙って窓を閉めた。さあ、これでもう黒い鳥は逃げられない。
「何をなさるおつもりで?」
ミツルは答えず、ティウから預かった剣をさやから抜いた。そして真上に振りかぶる。
「何をなさっておいでです? 妙な格好をなさって……」
ミツルは目を見開いた。黒い鳥には剣が見えていないのだ。――一つの信念に凝り固まった者は、異質なものを見る力はないのだろうか。ミツルの脳裏をふとそんな考えがよぎったが、今は自分の考えを吟味する気にはなれなかった。
「ええいっ」
自分を鼓舞するように鋭い叫び声をあげて、ミツルは黒い鳥めがけて斬りつけた。その瞬間、思わず目を瞑ってしまったが手ごたえはあった。
「ギャアアアーーッ!」
耳をつんざくような悲鳴があがる。ミツルは返り血を浴びることを覚悟していたが、何も感じなかった。
おそるおそる目を開けると、黒い鳥の姿はなく、黒い羽根が一枚卓上に乗っていた。それもミツルが見ているまえで、だんだんと色が抜けて行き、しまいには何もなくなってしまった。
終わった……。ミツルは深く息を吐いた……。自分は黒い鳥を倒したのだ。
静かだった。部屋には誰もいない。ミツルは剣を片手に立ちつくしていたが、突然顔を歪めた。
「……終わったんじゃないわ。始まったのよ」
この世でたった一人、皇女としての人生が。全ての臣民を幸福にしてやらなねばならない、そんな重責ののしかかる人生が。誰も肩代わりしてくれない孤独な立場の人生が。
ミツルの頬を涙が伝った。それを手巾で拭こうと、彼女は卓上に剣を置いた。そして気がついたのだ。その剣がぼうっと光を放っていることに。
「ティード将軍?」
剣は淡い光を放ち続ける。
「有り難うございます。慰めて下さってるのね……」
ミツルは手巾と椅子とを卓の傍に持ってきた。このほんのりとあたたかい光の傍で、泣きたいだけ泣こうと思った。