救いの剣
ミツルは皇宮の建物から走り出ると、小川のほとりへと向かった。もう日が暮れていたが、彼女は迷わず駆けた。はじめは警護の兵たちがあちこちに立っていて不審そうな目をミツルに向けていたが、聖なるラクロウ川の辺りまでくると、そこにはほとんど人気は無かった。
白い玉砂利が月の光を優しく跳ね返し、ラクロウ川のせせらぎがサラサラと静かな音をたてる。そんな落ち着いた雰囲気を破ることをものともせず、ミツルは大きな声を上げた。
「辻の巫女! 姿を現して! お願いがあるの!」
今まで辻の巫女はミツルの意志とは関係なくその姿を現した。呼びかけて出て来てくれるかミツルに自信はない。それでもミツルはもう一度巫女を呼んだ。
黒い靄が立ち込めはじめてミツルの顔に安堵の表情が浮かぶ。そして靄が人の姿となり、辻の巫女が現れるとミツルはすぐに礼を言った。
「出てきて下さって有り難う。辻の巫女」
「いやいや礼には及びませぬ、ナイア姫。貴女が助けを願うなら、私はこの身を現すのを厭いません」
「有り難う。あの……黒い鳥を御存じかしら?」
「ええ。存じておりますよ。皇宮から一歩も出ることなく、『河の信仰』にがんじがらめになった人々の生み出したあやかしです」
「私、あれを退治したいの。あれは私の弱い心を見抜いて、私がしなくてはいけないことに立ち向かう気持ちをくじけさせてしまうわ。私、負けたくないの」
辻の巫女は皺だらけの顔を動かす。どうやら微笑んだようだった。
「自分の出来ぬことを他人に頼むのは結構なこと」
ミツルは少し困った顔をした。
「それって、甘えてるってことにならない?」
「いいや、全く。自分が何でも出来ると思うことの方が傲慢じゃ。出来ぬことは出来る者に助けてもらう。特にナイア姫、貴女にとってそれはとても重要なこと。貴女は広大な帝国を統治する。貴女が貴女お一人の考えだけで、ことを動かそうとしてはなりませぬ。適切な人材から広く意見を募るのが、真の皇帝の役目なのです」
「……それは、そうね。で、私が貴女に助けを求めたのは適切だったのかしら?」
ミツルは黒い鳥が黒い翳になったのを見て、同じく黒い靄から現れる辻の巫女を連想したのだった。人智を超えた存在なのだから、なにかしら助けになるかもしれないと思って呼びだしてみたものの、果たして適切かと言われると具体的な根拠はない。
「貴女が私を呼んだのは半分正しく、半分はそうでない」
「半分は間違い?」
「残念ながら。私自身にはあの黒い鳥を倒す力はないのです」
「……そうか、そりゃそうよね」
頭の回転の速いミツルは答えた。
「辻の巫女がやっつけられるものなら、とっくにやっつけていたでしょうものね」
「さよう。今まで私もあの鳥を止めることが出来なかった。――しかし、今は違う」
「あいつをやっつける方法があるの?」
「残念ながら、私自身にその力はない。私も『河の信仰』の一部でしかないから。――ナイア姫。一つの文化が他の文化を拒絶したとき、その文化は腐敗を始める。この腐敗が生み出したのが黒い鳥じゃ」
「それって、その腐敗に他の文化のものなら立ち向かえるってこと? じゃあ……」
「そう。ナイア姫のお考えの通りじゃ。貴女の側には剣がある。異教の巫女ティードリーア姫が命を投げ出し、その魂を宿らせたあの剣が」
「あの剣なら黒い鳥を倒せるのね」
「その通り」
「でも……。あの剣を持っているのはティウ将軍だわ。ティウ将軍が私に貸してくれるかしら……。ううん、貸して貰わなきゃ。ティード将軍が生きていらっしゃったら、こんな時きっと私を、そして私の背後にいる帝国の民を救おうとなさったはず。むしろ黒い鳥に負けてしまったら、私、あの方に顔向けできないわ」
「あの異教の巫女にどうか感謝の念をお忘れになるな、ナイア姫。あの剣はこの帝国を救うものなのだから」
「わかりました、辻の巫女。決して忘れません」
ミツルはきっぱりと答えた。その様子に巫女は満足したようで、うんうんと頷きながら黒い靄となって消えていった。
ミツルは皇宮の方向に戻り、警備の者に、皇軍のティウ将軍はどこに居るのかと尋ねた。だが、警備の者は皇軍とは馴染みが薄く、彼は恐縮しながらミツルに待ってくれるよう頼み、誰かに聞きに行った。
暫く経ってミツルにもたらされたのは意外な答えだった。
「ナイア皇女。お尋ねのティウ将軍は旧ゲルガンド将軍邸の庭にいらっしゃるそうです」
何故ティウがそんなところに? と一瞬ミツルは不思議に思った。しかし謎はすぐ解けた。ティウは、ゲルガンドの住まいだからそこに居るのではなく、ティード将軍がそこで暮らしていたからそこに居るのだ。
「教えてくれてありがとう。私は今からそこに行きます」
ティウのミツルに対する憎しみを知らない警備兵は、「わかりました」と一礼してミツルを送りだした。
ミツルがゲルガンド邸の庭に足を踏み入れてみると、ティウが放心したように館を見上げていた。彼は、在りし日の妻の幻影を見つめているかのように、みじろぎ一つせず立っている。
ミツルは、ティウのその時間を奪っていいものか迷い、彼をこちらに気付かせるべきか判断しかねたので、そっと足音を忍ばせて行ったが、無駄だった。優れた武人であるティウが、人の気配に気づかぬわけがなかった。
「誰だ?」
誰何する声は険しかったが、相手をミツルだと認めるとティウの顔は更に厳しいものになった。その端正な顔立ちを歪めて、彼はミツルに対する憎悪を隠そうとしない。
「何の用だ?」
ミツルはその声の冷たさに心まで凍てつく思いだったが、懸命に声をふりしぼった。
「お願いがあるんです、ティウ将軍」
「願いだと?」
ティウは唇の片方だけを上げた。嘲笑に近い表情だった。
「お前が私に頼みごとが出来る立場だと思っているのか」
ミツルは意識して背筋を伸ばした。
「私個人にはそんな資格はないかもしれないわ。でも、私が良い皇女であることは、単に私の為だけじゃなく、帝国の民の為、ティード将軍の為でもあると思うの。だからお願いします」
「…………」
ティウは無言で続きを促す。
「皇宮には人語を操る黒い鳥がいるの。あのペイリン皇后が話し相手にしていた鳥よ。この鳥は皇宮に住む人々の嘆きを聞くために生まれた――そしてその嘆きのままに生きることを勧める。つまり、人の心の弱さを見つけて、それに従うように人に勧めるのよ」
「それがティティと何の関係があるんだ?」
ティウはあくまで愛妻のことしか関心がないのだった。
「ごめんなさい、もう少し話を聞いて。黒い鳥は私のもとにも現れたわ。そしてコーイチと別れたくない私の心の弱さを見つけ、コーイチをあちらの世界に戻さないよう、私を唆すの。私はその鳥の声に負けたくないからやっつけようとしたわ」
ティウの顔にあるかなしかの苦笑が浮かんだようだった。あいかわらずお転婆な娘だと思ったのかもしれない。
「でも黒い鳥を退治できなかった。私は燭台で殴ろうとしたんだけど、鳥はその瞬間黒い翳になってしまって……。何の手ごたえも無かったわ。自分の影法師を退治するような感じよ」
「水の兵士に似ているな」
ミツルはティウの言葉に大きく頷いた。
「そう、そうなの。黒い鳥も人智を超えたあやかしなのよ。だから私は辻の巫女を呼んで尋ねたの。どうすればあの黒い鳥に勝てるのかって」
勘の鋭いティウが低い声で短く問うた。
「ティティの剣か?」
「ええ、辻の巫女は言っていたわ。『河の信仰』の中にあるものでは、あの黒い鳥は倒せないのだ、と。一つの文化が新しい力を得るのは、他の文化からなのだ、と。あの黒い鳥を斬るには、異教の巫女だったティード将軍の魂を宿す剣が必要なの」
「ティティの魂の宿る剣を、どうして私がお前に貸してやらねばならないのだ?」
「お願い。私の為だけじゃないわ。この帝国の民が新しい王朝を信頼し、平和に暮らすには、私はコーイチをあちらに戻さないといけないの。私、本当はコーイチにそばに居て欲しいけれど、そんな弱い心に負けるわけにはいかないのよ。私の弱さに付け入るあの鳥を私は倒さなければならないわ」
ティウはふっと眉根を寄せた。
「一つ聞く。お前は女帝になったらどういう風に帝国を治めるつもりだ? さっきから聞いていると、お前は自分たちの王朝の安定が民の幸せであるかのように語るが、そうだとは限るまい? お前は民を幸せにできる自信はあるのか?」
ミツルはふいを突かれて黙り込んだ。
「それは……。でも、今の時点で帝国の滅亡は避けなきゃいけないんじゃないかしら? 長く続いていたものが突然滅びちゃったら、その混乱は民を苦しめることになると思うし……」
「今までどおりの治世を受け継ぐつもりか? お前は長い旅をしてきて、今までの帝国のやり方に問題はなかったと思うのか?」
「いえ……そうは思わないわ……」
浜辺の者への差別。ワレギアに代表される、『河の信仰』を押しつけてきたことによる悲劇。帝国の中枢部に巣食う帝国の民への無関心。今までの帝国のありようはあちこちに軋みを生んでいる。
それは何故? ミツルは考えの焦点をそこに結んだ。そして思い至った。帝国の問題は、帝国が『河の信仰』以外の文化を認めず、皇帝皇女が自らの神聖さを絶対視し、自分たちの間違いを正そうとしなかったことによる。
ミツルは顔をあげた。
「どんな治世がいいのか、私にはわからないわ、ティウ将軍。でも、私には分かっていることがある。それは私にはわからないことが沢山あるってことよ」
「何が言いたい?」
「私は分かってるわ、この帝国全ての民を幸せにすることはとてつもない難事業だってことを。とても私一人の手に負えない。だったら手伝って貰えばいいのよ」
「お気に入りの側近でも作る気か?」
「全員よ、全員」
「何?」
「この帝国の民全員に考えて貰うのよ。帝国中の全員が頭を絞ればよい知恵だって出てくるってもんよ」
ティウは呆れた声を出した。
「お前は帝国の民から、税だけでなく、知恵まで絞り取るつもりか」
ミツルは涼しい顔で答えた。
「そうよ。その代わり私は二つのものを民に与えるわ。自由と教育よ」
「自由と教育?」
「そう。まず旅の自由。辻の巫女が言っていたわ。一つの文化がそれだけでいようとすると腐っていくって。だからいろいろな文化の間の風通しを良くしなくっちゃ。あ、もちろんどの文化も対等よ。お互いがお互いの良き師であるべきだと私は思うもの」
「…………」
「それから教育。コーイチが言っていたわ。あちらの世界じゃ、民は全員強制的に字を覚えさせられるんですって。同じ年齢の子供が集団になっていろんなことを学ぶ施設があるのよ」
「ガキ同士が集まらないといけないのか。ぞっとするな」
零落した折、同じ年頃の子どもたちに石を投げられながら育ったティウは肩をすくめた。
「そうねえ。そう言えば、コーイチも群れの中でいじめられて、それが苦しいって言ってたっけ。……でも、学ぶことは人を自由にするはずよ。因習にとらわれなくなるし、知らなかったことを知って新しい考えを手に入れることができるし。それが学ぶことの本当の意義なんだから、集団っていう形式には別に固執しなくてもいいんじゃないかしら」
ミツルはうん、と一つ頷いた。
「それから、コーイチによるとあちらの世界には皇帝っていないのよ。民の中から、適した人を選んで、その者達が国を治めるんですって。そう、だからあちらの世界の民は全員、国や皇帝なみに、高い見識を持っているのよ。あちらの民に出来ることなら、こちらの民にもできるはずよ。みんなに、皇帝並みに帝国の事を考えてもらうわ」
ミツルの表情にはもはや暗いものはなかった。瞳を輝かせて話し続ける。
「帝国にはこんなに多くの民がいるんですもの。知恵を絞って貰ったら、素晴らしい考えがでてくるわ。それを拝借しながら治めていけば、私が女帝になっても大丈夫よ」
しかしミツルの少々高揚した気分は長続きしなかった。ティウが冷水を浴びせるようなことを言ったからだ。
「まるで、既に名声を確立した皇帝気取りだな」
彼は続けた。
「未来を見て楽しい気分に浸っているようだが、お前の足元を見てみろ。お前はティティの死の上に生きながらえているんだぞ」
ティウは亡き妻以外のことはどうでもよかった。彼の愛妻にはもう未来はない。それなのに、ティティが命を犠牲にしたこの娘は、滔々と自分の明るい未来をぺちゃくちゃと喋り続ける。それがティウの癇に障ったのだった。
「あ……」
ミツルは口を半開きにしたまま、しばらく困惑していた。ミツルの気持ちを膨らませていた何かが、シュ―と音を立てて抜けていくようだった。彼女は項垂れ、小さな声で言った。
「ごめんさない……」
そこに思いがけない声が聞こえた。
「ティウ将軍、もういいじゃないか」
ミツルは声のした方向を振り向いた。
「コーイチ!」
光一が、ゲルガンド邸の門の方からこちらに歩み寄ってくるところだった。