黒い鳥との対決
ミツルはリザ皇女の部屋にいた。皇女にふさわしい部屋はそこしかない、という理由で。その部屋に入ってすぐ、ミツルは案内してくれた侍女に尋ねた。
「ひょっとして、リザ皇女は花柄が好きだったの?」
「はい、さようでございます」
ミツルは部屋中を彩る花柄模様を見回した。ただ、「私も花柄が好きなの」とは口に出さなかった。
一人になるとミツルは机に向かい、深々とため息をついた。そして両手を握りしめる。
――リザ皇女と同じじゃいけないのよ。
ティウの冷たい声が耳に蘇る。「ティティはお前をリザ皇女にしようとして死んだんじゃないんだぞ」
――分かってるわ。
自分が光一と別れたくない、というのは自分の我儘だということは分かっている。そんな自分の我儘をとおせば、新しい王朝の信用を損ねてしまうことも分かっている。だいたい自分の命は、ティード将軍に助けて貰わなかったら、無かったかもしれないのだ。ティード将軍に救ってもらったからには、ちゃんと皇女として胸を張って生きていかなきゃならない。それも分かっている。
――だからコーイチをあちらに返さなきゃならない。
でも……。ミツルは両手で頭を抱えた。
――そしたら私は独りになってしまうわ。
「浜辺の村」で暮らしていたときには、母がいた。そして夢があった。いつか「海から来た者」と旅をして、自分をあたたかく迎えてくれる人々と暮らす、という夢が。その夢をかなえる旅の間、いつもコーイチが傍にいた。「彷徨える皇軍」に入って、自分に思いがけないことが次々に起こったけれど、いつもコーイチは自分の傍にいて「大丈夫だよ」って言ってくれた。
――コーイチがいなくなったら……。
ミツルは両手で自分の身体を抱きしめた。周囲の人々が自分を見る目は決してあたたかくない。新しい皇女はリザ皇女と同じなのではないかという猜疑心に満ちたまなざし。ティウのように、ティード将軍を犠牲にしておいて、という非難めいた視線。
もちろん、光一と別れることが、彼らからの不信感を拭う第一歩になるのだ、ということはミツルもよく分かってはいるのだ。しかし……。
ミツルの瞳から涙が零れた。光一がいなくなってしまうと自分は本当に一人ぼっちになってしまう。血は繋がっていても父だという実感の持てないゲルガンドを除くと、彼女の周りは、彼女が守ってやるべき臣民だけになってしまう。これからは自分と対等な仲間などもう持ちようがない。
――それに……。
ミツルの胸がチリリと痛んだ。
――コーイチがいいのよ――。
いつもどこか自信なさげな癖に、ミツルが不安になったとたん、まるで兄ででもあるかのように「大丈夫」と請け負ってくれた。自分の居た世界と全く違う世界に来ていろいろ戸惑っただろうに、旅の障壁にぶち当たる度に自分と一緒に真面目に乗り越えてくれた。そして、あちらの世界のことをちっとも面倒がらずに自分に教えてくれた――。
旅の始め、ミツルは光一を「どうも頼りない男の子」だと思っていた。でも、今は違う。
――コーイチ、私の傍にいて。
そしてミツルは願うのだ。私の傍にいて。私の手を握って。私の肩を抱いて。そして……。
バサバサッという羽音が聞こえた。ミツルが驚いてその音の方へ振り向く。すると黒くて大きな鳥が窓枠にとまっていた。
「初めまして、ナイア姫」
ミツルは目を見張った。
「貴方、口をきくの? 鳥なのに?」
その時ミツルの記憶の奥で閃くものがあった。
「貴方、もしかして、ペイリン皇后が『人語を解する鳥がいる』と言っていたという、あの黒い鳥?」
「さようでございます」
「……どうして喋れるの?」
「は?」
ミツルの問いは、黒い鳥には予想外だったようだが、すぐカタカタと嘴を鳴らして答え始めた
「この皇宮は代々にわたる貴人たちの住まいでございます。貴人方はお立場上様々な悩みを持たれ、そして貴人故に親身に悩みを聞いてくれる相手をお持ちになれない。『誰か私の悩みを聞いて、慰めてくれないだろうか』という貴人方の願いが凝り固まって生まれたのが私なのでございます」
「……そう」
そうとしかミツルには答えられなかった。何しろ彼女は皇宮のことなど殆ど何も知らないのだから。不思議は不思議でも、そう言われればそうとしか思うしかなかった。
「それで貴方は私を慰めにきてくれたってわけなの?」
「さようでございます。ナイア姫。姫様はもはや皇女様でいらっしゃるのですぞ。人の上にたつ者が、下の者の言うことをいちいち気にしてどうします?」
「……どういうこと?」
「あの『海から来た者』と共にいたいのでございましょう? どうかお望みのままになさいませ」
「そういう訳にはいかないわ、だって……」
「あの者がいなくなっては姫様はたったお独りになってしまわれるのでございますよ」
「独り……」
「そう。姫様はゆくゆくは皇帝におなりあそばす。未来の皇帝に何の打算も下心もなく近づいてくる者などおりません」
「私が良い皇帝だったら、心から私の為になろうという人間だっているかもしれないじゃない」
「だとしても、気安い、打ち解けた付き合いなど出来ませんよ。何せ皇帝と臣下なのですから。貴女は忠臣は得られても、友人はお持ちになれません」
しばらくの間ミツルは黙り、それから少し俯いてポツリと言った。
「本当に私は独りになるのね……」
「そうそう、お気の毒なナイア姫。でも姫にはまだ救いがある。あの『海から来た者』がいるではありませんか」
「だけど、コーイチはあちらの世界に戻さないと……」
「戻さなくても良いではありませんか」
「でも、みんなが……」
「皆が反対するのなら、こう言ってやればいかがです? 『あの者は将来の夫にするのだ』と」
「え?」
「女帝となると結婚相手を探すのも大変です。身分や年回りも大事ですが、何よりその人柄が問題だ。妻を差し置いて皇帝気取りになるような野心家では困ります。その点、あの者なら皇帝の夫に実に適した性格です」
「それはそうかもしれないけど……。でも……」
「周りがガタガタ言うなら、こう言っておやりなさい。『私はこの者以外と結婚しない』と。女帝が結婚しなければ皇統が途切れてしまいます。皆さぞ慌てることでしょう。この大問題に比べたら、『海から来た者』のせいでこちらの魂が一つ跳ね飛ばされることなぞ大したことではありますまい」
「……そうね……」
ミツルは、自分の心が羽でも生えたかのように軽くなるのを感じた。ずっとコーイチと一緒にいられる。辛いことがあっても愚痴を聞いて、優しく励ましてくれる人がそばにいる。私は独りじゃない。ずっと。そうこれからもずっと。
完璧な人間なんていないんだわ。そうミツルは思った。たしかにこちらの魂を一つ跳ね飛ばしてしまうけれど、私はちゃんとお世継ぎを生むもの。どちらもできれば完璧だけど。でも、どちらか出来る方だけ出来ればいいんじゃないかしら……。
何しろ女帝の結婚は難しいのだから……。と、ここまで考えてミツルは冷や水を浴びせられたような気がした。
皇女の結婚。これこそリザ皇女がこだわったことではないか。この世界に生きている民を――ミツルのたった一人の母親も含めて――犠牲にしても、皇女はゲルガンドにこだわった。自分もその皇女の身勝手さに憤った一人ではなかったか――。
「黒い鳥。やっぱりそうはいかないわ。私はリザ皇女と一緒になってはいけないの」
「おお、ナイア姫。リザ皇女は本当にお気の毒な方でした。ずっとお独りでお暮しになられて……。お寂しい生涯でした」
「……ねえ、貴方、リザ皇女ともこうやって話したの?」
「ええ、さようで。皇女というお立場が如何に孤独かお嘆きでいらっしゃいました」
「それで貴方はリザ皇女にビシッと言ったことはないの? 我儘ばかり言っていないで、未来の皇帝として臣民の命を大事にしろ、って」
「申しませんよ、そんなこと。私は皇女様が聞きたいと願ってらっしゃることを申し上げる立場なのですから」
「…………」
ミツルは暫し絶句し、強張った顔で尋ねた。
「では、さっきコーイチを戻さなくてもいいって貴方が言っていたのは、私がそれを願っていたからなの?」
「ええ。さようでございますとも。それが貴女の願いでございましょう?」
「……私の……願い……」
ミツルは右手で胸を押さえた。確かに自分は光一に傍にいて欲しいと願っている。でも――でも――。何か違和感がある。私の願いがかなっても、それだけでは満足できないような気がする。
ああ、こんな時コーイチと話ができればいいのに。そう思ってミツルはハッと目を上げた。肝心のコーイチ自身はいったい何を思うだろうか。そして私はコーイチにどうあって欲しいのだろう。
――もしコーイチがあちらに戻らないと言ったとしたら。
自分は安堵するかもしれないけれど、心のどこかで失望もするだろう。
コーイチに傍にいて欲しいというのは自分の我儘でしかない。コーイチにはそんな我儘のいいなりになって欲しくない。あの少し自信なさげな様子で自分を諭して欲しいのだ。
――“でもさ、ミツル。やっぱり皇女っていうのは臣民を第一に考えなきゃいけないんじゃないかな?”
ミツルは空想の中の光一に問う。
――私は独りで立派な皇帝になれるかしら?
――“大丈夫だよ”
光一が「大丈夫だよ」と言って微笑む姿は容易に想像できた。そうだ、光一はきっとそう言うに違いない。そして自分の傍にいて欲しい光一はそう言う人間であるはずなのだ。
だって二人は一緒に旅をした。虐げられる弱い民の立場から出発し、この世界の改めるべき点を見聞きし、ミツルのためにティード将軍が命を落としたところまで光一は自分と共に過ごした。だから光一は言うはずだ。「ミツルは立派な皇帝になるべきだ」と。そして「ミツルなら大丈夫だよ」と。
ミツルは黒い鳥に素っ気なく言った。
「私は自分の心を他人から聞こうとは思わないわ。私は私を励ましてくれる他人の声を聞きたいの」
「ほお」
黒い鳥は「心外なことを聞いた」という風に胸を反らせた。
「姫は他人に貶められたいとお望みですか」
「他人が私の思っていることと違うことを言ったからって、貶められたとは思わないわ。いえ思っちゃいけないわ。他人が言ってくれて初めて『ああ、そうなんだ』ってわかることもあるでしょう? それに私は、けなされたらけなされっ放しにはしないわよ。そういうのには十倍言い返してやるわ」
そうよ。とミツルは力を込めた。
「自分と違う考えを聞いて、そして自分の頭で考えて自分の意見を言って。そうやって人間って成長するんじゃないの? 今は確かに一人が怖いけど……。でも、幼い子供がお母さんにべったりでも、やがて一人で遊んでも平気になるように、私だって成長すれば独りがそんなに怖くなくなるかもしれないわ」
子供の例えが口をついて出たことに、ミツルは自分自身で驚き、そして納得した。
「ええ、そう。私はお母さんのもとから旅に出た。旅に出る勇気が私にはある」
そしてミツルは再び黒い鳥に視線を当てた。
「ねえ、黒い鳥。私には私の強さがあるはずよ。どうして貴方は私のそういうところは教えてくれないの?」
黒い鳥はやけに落ち着いた声で答えた。
「私は存じておりますよ、人間には強い時もあれば弱い時もあることを。貴女は今はそうやって強がっているけれど。ようく考えてごらんなさい。まだきっと独りが寂しくなる。きっと弱音を吐きたくなる……」
「それはそうかもしれないけど……」
「私は貴女の心の鏡。貴女の弱い心の代弁者。貴女はいつか独りが怖くなる……」
「やめて!」
ミツルは叫んだ。この鳥は危険だ。自分の弱いところにばかり目を向けさせようとする。ミツルは部屋を見回し、卓上に背の高い燭台を見つけた。それを掴んで再び黒い鳥に相対する。
「もう私の前に現れないで。さもないと……」
「さもないと? 私は現れますよ。貴女に弱い心がある限り……」
「なら、こうしてやるわっ!」
ミツルは手にした燭台を黒い鳥に向けて振り下ろした。生き物を殺すのは初めての経験で、少々恐ろしくはあった。しかし、この化け物をどうにかしないと、自分の心が乗っ取られるような気がしたのだ。
けれどもミツルの手は何の手ごたえも感じなかった。まるで空を斬ったかのように。ミツルの燭台が黒い鳥に当たる瞬間、黒い鳥はさあっと黒い翳に変わってしまった。
ミツルは茫然とその黒い翳を見つめる。するとその影は次第に濃くなり、黒い塊となって、再び黒い鳥の姿に戻った。そして鳥はカタカタと嘴を鳴らす。
「ホ、ホ、ホ。申しあげたでしょう? 私は貴女の心の鏡。貴女の弱い心の現れ」
「やめてよ。私は弱いばかりじゃない!」
「されど、強いばかりでもない」
「でも、でも、弱い心に屈したくないの。出て行って! いえ、私が出て行くわ!」
ミツルは黒い鳥の姿を見たくなかった。自分の弱い心を暴き立て、はやし立てる不気味な鳥。殺そうとしても死なないあやかしの類。自分は一生あの黒い鳥に纏われ続けるのだろうか。いつかあの黒い鳥の囁きに、自分の弱い心に負けてしまうのだろうか。
カタカタ、カタカタと、黒い鳥が笑う嘴の音が聞こえる。ミツルは両手で耳を覆いながら、部屋から飛び出して行った。