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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
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酒瓶

 光一に与えられた部屋は、豪華ではなかったものの、きちんとした清潔な部屋だった。聞けば、光一のように寄り道せずに皇都に来た「海から来た者」が、元の世界に戻るまでの日を過ごすための部屋なのだそうだった。


 光一はその部屋の中を、日が暮れるまで、ときどき頭をかきむしりながらウロウロと歩きまわっていた。それは日が暮れてもしばらく続いたが、やがて彼はドアの前で立ち止まり、深々とため息を吐いた。


 光一がドアを開けると、外に立っていた護衛の者が尋ねてきた。


「どこにお行きになるんです?」

「ちょっと仲間のところへ……」

「仲間?」

「ティード軍のところに行きたいんです」


 ゲルガンドの率いてきた皇軍の全員が皇宮の建物に入れるはずもなく、大半がその近辺で野営をしていた。


「結構でしょう。どうぞ」


 護衛のその言葉に光一は軽く会釈して歩き出した。


 ティード部隊、いや正しくはティウ部隊では、天幕の並ぶ中心にたき火が焚かれていた。ティウの姿はなく、アチェと兵士が数名、火を囲んでいる。光一の近づく気配にアチェがいち早く気づいた。


「やあ、コーイチ」


 アチェは片手を上げて声をあげると、身振りで隣に座るように促す。そして、光一が腰を下ろすとアチェの方から話題を――光一が誰かに聞いてもらいたかった話題を――切り出した。


「あんた、向こうの世界に帰るんだろう?」

「え? ええ、まあそうしようかと思ってるんですけど……」

「だろうね。あんたは『帰らなければならない』って言われると素直にそれに従う人間だからね」


 光一は眉をひそめた。アチェは意外そうに光一の顰め面を見る。


「そんな単純なもんじゃないですよ」


 その声は光一が思った以上に不機嫌さが露わで、光一は慌てて次を続けた。


「僕は、本当は帰りたくないんです。だって、あっちに居た頃の僕は冴えなくて。仲間も友達もいないし。こっちに居れば、仲間もいるし、それに……友達っていうか何ていうかミツルがいて僕を頼りにしてくれるし。こっちじゃ未来の皇帝に頼りにされるほどの存在なのに、あっちに帰ったら、僕はまた独りぼっちで、イジメに会うことになるし……」

「でも、戻るんだろ?」

「ええ、それが皆のためですから……」

「ふうん、みんなねえ……」

「そうです。帝国の人々、ティード将軍、ティウ、そしてミツル、そして僕自身のためです」

「あんたのため? あんたは戻りたくないんだろ?」

「それは、まあ。戻らないでここに居たら、一時的にというか表面的にというか楽しいだろうなとは思うんです」

「でも、それは『一時的で表面的』なんだ? ちゃんとした幸せじゃないってことかい?」

「ええ。だって、人の不幸の上に成り立つ幸せはないと思うんです。僕とミツルが楽しく過ごしていたとしても、誰かが――例えばティウが非難の目で見るのに気付いたら、僕達は自分のために不幸になった人を思い出す。その人に対して申し訳できない暮らしをしていることが、きっと苦しくてたまらなくなる……ミツルも僕も」

「…………」

「僕もミツルも互いに相手を責めることはないと思います。でも、自分が目先の楽しさを求めたせいで、相手を苦しめてしまうようになったことを悔いるようになると思う……。だから、だから、僕は僕自身とミツルの為に戻らなくちゃいけないと思う」


 アチェは一つ息を吐いて言った。


「『人の不幸の上に成り立つ幸せはない』か。あんたの言いそうなことだね。私があんたに初めて会った頃のあんたも、そう言いそうだったよ。人を傷つけることを恐れる小心さからね」


 光一が何か言いかけたが、アチェは光一が口を開くより先に自分の話を続けた。


「でも、今言ったのは重みが違う。あんたは一般論で言ったわけじゃない。他ならぬあんた自身の幸せについて言ったんだ。あんたは人の不幸の上の自分の幸せは、本物じゃないことを見抜いたんだ。立派なもんだ。成長したもんだね」


 しかし褒められたとわかっても、光一は複雑なものだった。


「でも、僕、それをミツルに言えないんです」

「……そうかい?」

「あの……女性のアチェ副将にはわかって貰えないと思うんですけど……僕、ミツルが好きなんです」

「それくらい見てりゃわかるけど」

「あの……それが……単に好意を寄せているってだけじゃなくて、僕、僕……男として、女性としてのミツルが好きなんです……」


 アチェはコーイチの朱に染まった頬を一瞥して天を仰いだ。


「ああ、なるほどね。うーん、男の恋心ってやつは、さすがのアチェ様もどう言ってやったらいいかわかんないや」


 けれどアチェはすぐに下を向くと、足元に置いてあった自分の手荷物袋に手を突っ込んだ。そして陶製の瓶を取り出し、光一に差し出した。


「ほら、これを持ってティウのところへ行きな。そしてティウに全部話せばいいよ。自分が元の世界に戻ることも、でも恋した女の許を離れがたくて辛いことも。全部男同士で語らっておいで」

「あの、この瓶は何ですか?」

「商都『尖塔の街』随一の酒屋の店主の秘蔵品さ。とびきりの年代物だよ」

「え、お酒ですか?」

「そうだよ。ちょっと強いけどね。でも、あんたは立派な大人の男さ。もう飲む資格がある。ティウと男二人酒を酌み交わしてきな」

「僕があちらの世界に戻るって言ったら、少しはティウの怒りも解けますかね」

「まあね。自分一人がこの世の全ての不幸を背負っているかのような気分から、多少は目が覚めるだろうよ」

「じゃあ、これ、有難くいただきます。本当は僕のいた世界じゃ、僕の年齢ではお酒を飲んではいけないんです。でもここは別世界だから特別ですよね。あっちに戻ったら僕はお酒を飲みません」


 アチェは「そうかい」と答えて手を振った。光一は立ち上がり、ティウを探すべく歩き出した。


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