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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
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皇女への壁

 ゲルガンドは勝利に湧きかえる軍勢とともに、皇宮の前に立っていた。


 リザ皇女の絶命の瞬間、ゲルガンド軍をしばし悩ませた水の兵士たちはただの水に戻り、ぴちゃんぴちゃんと地面に滴り落ちた。スヘイド帝側の三角陣は、数も士気も上回るゲルガンド軍にあっさりと崩れ去った。最早ゲルガンドの前には敵はいない。


 ティルバが弾む声でゲルガンドに呼びかけた。


「ゲルガンド将軍、いや皇帝陛下。大会堂に入りましょう。玉座にお着き下さい。そして即位を宣するのです!」


 ゲルガンドは首を振った。


「いや、まだスヘイド帝の消息がわからない。それに私が皇帝にふさわしいかどうか、神官の裁可を待たねばならぬ」


 ゲルガンドは皇宮の中に入らず、『海の源流』から流れ出ている小川の方に向かった。その後をミツルと光一、そしてティウを含む諸将軍がついていく。


 小川の向こうには白い装束の神官たちが集まっていた。ゲルガンドが近づくと、神官長が小川に掛けられていた小橋を渡ってきた。そしてゲルガンドの前で跪き、大きくはないがはっきりした口調で言った。


「神聖なる皇帝陛下。新しい皇帝陛下の誕生を、我々神官共は心よりお祝い申し上げます」


 ゲルガンドは眉根を寄せた。


「……では、スヘイド帝は……」

「リザ皇女の呪によって、もはや魚となり、海への旅路へつかれておられます」

「そうか……」


 神官は立ちあがって、今度は何故か光一に目を向けた。


「恐れながら、先帝のご息女リザ様には、帝国の臣民の命を軽んじられる風がございました。どうかゲルガンド帝におかれましてはそのようなことはございませんよう……」


 ミツルは、神官が光一を見てそう言うのに対して、不審そうな様子を隠さない。ゲルガンドは、そんなミツルと光一とに視線を向けた後、再び神官に向かってミツルと光一が驚愕するようなことを言った。


「わかっている。この『海から来た者』は早急にあちらに戻らせる。刻限は?」

「次の満月の日でございます。あと七日。それだけしか時間は残っておりませぬ」

「そうか……。分かった」

「分からないわ!」


 ミツルが叫んだ。


「『海から来た者』ってコーイチのことですよね? なんでコーイチのことが問題になっている訳なんですか? コーイチはずっとこちらに居てくれることになってるんです! あちらに戻すってどういうことなんですかっ!」


 神官が顔を顰めた。以前リザ皇女が呪術書を取りに森に入ろうとした時、そして「大返しの術」を使おうとした時、これらの時と同じ苦々しい表情だった。


「我々神官は、星占によって『海から来た者』がこちらに来たことは把握しておりました。しかし、一向に皇都に姿を現さない。我々は冷や冷やしておりました」


 何か言おうとしたミツルの肩に、ゲルガンド将軍が手をおいた。


「ナイア。お前は『浜辺の村』で育っていて事情がよくわかっていない。説明しよう」


 ミツルは一つ息を吐いて、興奮を静めた。


「ナイア。この世界にある命、すなわち魂の数は決まっているのだ。人の形をとっていようと、魚の姿をとっていおうと。この世界にある魂の数は変わらない」

「……ずっと同じ数の魂があって、それが魚の姿で海にいたり、『海の源流』に滴りおちて人間に生まれてきたりしているんですね」

「その通り。その間、魂の数は不変だ。ずっと同じ数だ」

「それはわかりました。でも、それがコーイチをあっちへ戻すこととどう関係するんですか?」


 ミツルは少し苛立った様子で尋ねた。


「あちらから『海から来た者』として一つの魂がこちらの世界にやってくる。すると、こちらの世界は余分な魂を一つ抱えてしまうことになる。その重みに耐えきれず、こちらの世界から魂が一つあちらの世界に飛ばされてしまうことになる……」

「…………」


 ミツルは無言で立ち尽くした。光一も棒をのんだように突っ立ったままだった。光一は自分という存在がこの世界にそんな重大な――あまり良くない意味で重大な存在であるとは全く想像していなかった。


 ゲルガンドは続ける。


「わかるね、ナイア。皇帝はこの世界の全ての魂を守らなければならない。どの魂もあちらの世界に飛ばしてしまってはならないのだよ。それには『海から来た者』自身にあちらに戻ってもらうしかない。神官の星占によればあと七日しかこの世界は持ちこたえられない。急な話かもしれないが、心を決めなさい」

「でも!」


 ミツルは大きな声で叫んだ。


「そんなこと、本当かどうかわからないじゃない! ただの神話かもしれないわ!」

「ナイアっ」


 ゲルガンドから短い叱責が飛んだ。ミツルは息を呑んだ。ゲルガンドの背後で神官たちがはっきりと非難の色を浮かべてミツルを睨みつけている。神官長が吐き捨てるように言った。


「新しい皇女が『河の信仰』をお信じにならぬとは。いやはや我々は皇女に恵まれぬ……。いや『河の信仰』に疑問などお持ちにならなかった点では、リザ皇女の方がマシであったのかも知れぬ」


 誰もが言葉を失い、凍りついたような空気が流れる中で、くすくすという笑い声が聞こえてきた。皆がその声の方向へ目を向ける。笑っていたのはティウだった。


「これは面白いことになったものだ」


 皆の咎めるような視線に臆するようなこともなく、ティウは続けた。


「ナイア姫、お前のせいで、私は大切な妻を失った。そして今、お前は大事な友人を手放さなきゃならない」


 ティウはふふんと鼻で笑う。


「お前は、お前にしては少々頭の悪いことを言ったな。『海から来た者』のせいでこちらの魂が一つ新たに飛ばされるというのが、本当のことかどうかわからない、だと? お前だって馬鹿じゃないから分かるだろう? 真実かどうかは直接問題じゃないんだ。それが真実だと信じられていること。それを真実だと信じている人間が少なからず存在するということが問題なんだ」


 ティウは皇宮の建物に目をやった。


「この皇宮ではそう信じられているんだろう? 『海から来た者』はこちらの人間の魂を弾き出す、と。お前はそう信じる人々の中でこれから生きていかなきゃならないんだ。お前が大事な友人を手放したくないと我儘を言えば、お前がこの世界から魂を一つ消すことになる、と皆は思う。皆、リザ皇女同様、お前にがっかりすることになるだろうな。そして……」


 ティウはミツルを睨み据えた。憎悪が燃えたぎっているかのような瞳で。


「私もお前を許さない」


 ミツルは息をのむ。


「ティティは一体何のために死んだと思っているんだ。お前は、ティティの死の上に生き延びているんだぞ。ティティは帝国の安寧を願っていたのに、お前はそれを無にするのか。帝国の多くの国の民が新しい王朝に期待している。今まで帝国は『河の信仰』を民に押しつけて来た。多くの民がそれを信じている。信じていなくても『河の信仰』の内容くらいは知っている。皇女のお前が『河の信仰』の大事な部分を、自分の我儘で破ったら、民はどう思う? 言っておくが、隠し通せはしないぞ。いずれ皆が噂することだ。新しい皇女が臣民の魂を見殺しにしたことをな。するとどうなる? 新しい王朝の威信は揺るぎ、帝国は安定を欠き、今以上に混乱が生じることだろうな。そんなことをティティが望んでいたとでも思うのかっ!」

「ティウ将軍!」


 ゲルガンド将軍がティウを止めた。


「ティウ将軍。君の言うことは正しい。ナイアも分かっていることだ。ただナイアは知らなかったのだ。そもそも、『海から来た者』の旅の費用を帝国府が握ることで、『海から来た者』は自動的に『海の源流』まで旅をすることになっていた。だから『海から来た者』がこちらの魂を弾き飛ばしてしまうことはあまり広く知られていない。ナイアも今初めて聞いて驚いているところなのだ」

「ゲルガンド将軍、あんた私の話を聞いてなかったのか? 今まで皆が知らなくても、皇女がこちらの魂を見殺しにすれば、その事実は噂になって皆の知るところとなるぞ」

「もっともだ、ティウ将軍。君の言うとおりだと思う。ただ、ナイアに少し時間を与えてやって欲しいのだ」

「…………」


 ティウは少しの間沈黙し、そして再び憎々しげにミツルに向かって


「いいだろう。だが、お前には繰り返し言っておく。お前の人生はお前だけのものじゃないんだぞ。ティティはお前をリザ皇女にするために命を落としたんじゃないっ!」


 と言い捨てると踵を返して立ち去って行った。ミツルは視線を落とすと、深いため息をついた。これから彼女の眠れない夜が始まろうとしていた。





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